科学の子、アトム
「鉄腕アトム」の駆動力は胸のなかにある小型原子炉という設定になっている。100万馬力の元は原子力なのだ。名前のアトムは原子、妹のウランは核物質、弟のコバルトも放射性元素から採られている。原子力時代のシンボルとして登場した。
この漫画の最初の形「アトム大使」は昭和26年(1951)から始まった。科学者でもある作者の手塚治虫は、戦後いち早く核の巨大なエネルギーの存在を知った。負の側面の原子爆弾の巨大な悲惨よりも原子力という巨大なエネルギー活用という正のほうに目が奪われたようだ。このエネルギーを使って、山を削って都市を作ったり、氷河を溶かして水路を建設したりと、原子力の夢を語られることが多かった当時の風潮に乗っていたのだろう。
当時はまだ連合国軍の占領下で、広島、長崎のことの詳細はほとんど国民には知らされていない。GIたちが持ち込んできたパルプマガジンには、先述した夢の原子力利用がノーテンキに語られおり、その影響を広く日本人も受けていた。
1950年の2月、一部のものしか見ることができないという限界はあったものの、丸木位里、俊による「原爆の図」が発表され、衝撃を与える。有志による全国展が開かれて、次第に原爆被害のことが国民の間に少しずつ漏れてはいくのだが、大きな広がりとはならない。朝鮮戦争の兆しも見えてきた時期で、GHQは原爆に関しては厳しい情報統制を強いていた。一般の国民には原爆の悲惨な被害は不可視だった。
講和条約調印で、米軍による日本占領政策が終わったのは1952年4月。その年の8月号の「アサヒグラフ」は原爆特集を掲載し、大きな反響を巻き起こした。
そして、1954年にビキニ環礁で第五福竜丸が被爆して、国民的な反核運動が高まりを見せる。これをアメリカは苦々しく思っていた。そこに割って入ってくる人物がいた。やがて、原爆と原発は切り離されて議論されるようになっていく。
その間の、反核運動と原子力政策のポリティックスを描いた新書があることを知った。『原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史 』(有馬哲夫著・新潮新書)。面白そうな本だ。アマゾンで注文することにした。詳細は、読んでから。
アトムについていえば、漫画が好評だったので、実写ドラマとして草創期のテレビに登場する。が、あまり出来がよくなかったようで放映は長く続かない。
そして1963年。作者の手塚が自ら動いて、アニメ「鉄腕アトム」を制作。テレビ放映が始まる。毎週30分のアニメーションを、子供たちは家で見ることができたのだ。すぐに子供らは夢中になった。番組が始まると、谷川俊太郎のあの主題歌をみんなで声をそろえて歌った。♪心優し、らら、科学の子。と歌ったぼくらは暴走する原子力エネルギーなんて夢にも思わなかった。
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