[原爆の図」を追って
午後3時、上井草駅前のコーヒーショップで、早大の小沢先生に取材した。早大では、今度の災害で入学式などを取りやめ、新学期は1ヶ月以上遅れて始まることになったそうだ。
先生は『「原爆の図」描かれた記憶、語られた絵画』(岩波書店)の著者である。2002年に書かれた著だが、丸木位里、俊夫妻が描いた「原爆の図」の詳細があますところなく記されていて、目からウロコの箇所をいくつも発見した。
この絵は30年以上にわたって描かれた15の連作だ。最初の作品「幽霊」が発表されたのは1950年の2月である。まだ占領軍によって原爆のことは厳しく検閲されていた時期だ。アンデバンダンの出品作とはいえ、当然、当局から睨まれたことは想像される。にもかかわらず、二人はこの作品を描かずにいられなかった。
位里は広島出身で、家族が広島で被災したと聞いてすぐに広島へ向かった。わずか4日後ごろに入市している。俊も遅れて半月後に入っている。だから、直接、原爆を体験したわけではないが、かなり近いところにいた。実際、俊は3年後に原因不明の下痢が止まらなくなっている。おそらく入市被爆の影響と思われる(二人とも被爆手帳は取得)。彼らは、被爆した位里の父母や妹から、原爆直後の惨状を聞かされた。爆心地から彼らが住んでいた三滝町まで、ぞろぞろと幽霊のようにしてやってきた人の群れを、強烈に記憶していた。このときの、手をぶらりと下げた姿は、後に「幽霊」に描きこまれる。この表象は原爆を語られるときの重要な表象のひとつになっていく。「ハダシのゲン」などが発表されるのは、これからずっと後のことだ。
そういう原爆被災と近接する場にあって描かれた「原爆の図」だが、絵が発表されたときからずっと批判されてきた。ひとつは、直接原爆を体験していないということ。2番目の理由は、(初期の3部作については)放射線の恐怖が描かれていないこと。などである。
同じようなことは、井伏鱒二が『黒い雨』を著したときも、当事者でないから原爆が分かっていないという批判が起きた。原民喜のように、実際に被爆した人物でないと芸術的価値がないということか。狭小な論理。
こういう批判や、「原爆の図」のもつ今日性について、小沢先生におよそ2時間話しを伺った。寒い日だったが、先生の熱のこもった「講義」に、私も時間が経つのを忘れた。
最後に、今回の津波被害の話に及んだとき、福島原発の事故は、「原爆の図」の意味をさらに深めることになったのかもしれませんねと、ひっそり語る小沢先生に私も共感した。
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