国民の命を守るというのはどういうことか
30キロ退避勧告の文言をソーリは読み上げている。何を伝えたいのか。判然としない。
勘ぐっていると精神衛生に悪い。他のことを考える。
今回の大地震に遭遇して、鴨長明が世のはかなさを記したことを、月並みだが思い出した。そこに記された「方丈記」の元暦の一節は、まさに今起きていることと同じだ。
また、同じころかとよ、おびただしく大地震ふることはべりき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いはほ)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。都のほとりには、在々所々(ざいざいしよしよ)、堂舎塔廟、一つとして全(また)からず。あるいはくづれ、あるいは倒れぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。家の内にをれば、たちまちにひしげなむとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震なりけりとこそ覚えはべりしか。
山は崩れて川を埋め、海は傾きて陸地を覆い、土裂けて水が出て、大きな岩は割れて谷に転がり、船という船はさらわれ・・・
先日、東北で起きた出来事そのものだ。長明は1200年頃の人だから、今から800年前にも日本人は体験していたのだ。
そうして、この世の無常を鴨長明はこう言い切る。「知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る」
ゴーギャンが語ると同様、私たちはどこから来て、どこへ行くのか私は知らない。なんとも我々は哀れでちっぽけな存在かと。
高校の古文で学んだときには退屈な美文としか思わなかったが、今回の体験をふまえると切実な実感が溢れてくる。
一方、大江さんは、たとえ人間は滅んで行く存在であっても抵抗しながら滅ぼうじゃないかと、ユマニストの言葉を引用して、語っている。セナンクールの言葉だ。