可愛いものだ
初めて大学で教えたのは、日大の芸術学部だった。2001年頃じゃなかったかな。
そのときの教え子が、ギョーカイに入ってイジメに会った。理不尽な職場の実態を聞かされて、私は憤った。「そんな会社、辞めてしまえ」とっとと、辞表を提出した。
責任を感じて、私の担当する番組の周辺に彼女を紹介した。そこで、彼女は馬車馬のように働いた。才能を発揮し、チームにとって掛け替えのない存在になった。数年、頑張っていたが、出産と同時に引退した。今は、家業を手伝いながら、子育てに専念している。
5年ほど前、京都大学の教え子たちと卒業旅行をするつもりでいた。アウシュビッツ。これまでホロコーストの番組を作ってきたにもかかわらず、一度も現地を踏んでいないと、授業で語ったら、有志が春休みに行きたいという。そのつもりで準備していたが、生憎、特集番組の収録が重なって、私だけ行くことができなかった。学生たちは訪問し、感銘を受けて帰ってきた。その学生たちは、メーカーや教師となって全国に散った。その一人から最近出産したという連絡をもらった。そこに、不肖の弟子からと記されてあった。こんな私を師と呼んでくれるのだ。
そして、去年一年間、武蔵野美術大で、たった3人だけ教えた。土曜日の昼からの授業は、学生には評判が悪い。半分休みと思っているから、わざわざ郊外のキャンパスまで出てこない。受講者が敬遠して、最小になったのだろうと、事務局は言っていた。私だって、土曜日に国分寺まで出かけるのはシンドイ話だと思いながら、10ヶ月続けた。一人は中国からの留学生、一人は18歳になったばかりの1年生、もう一人は自治会の会長をつとめる4年生。だが、この3人は優秀で熱心であった。それぞれ、一年間の課題として10分程度のドキュメンタリーを作るよう命じた。
そして、18歳が提出してきた作品を見た。頑張って、作っていた。売れないお笑い芸人を追っかけて取材していた。画面を見ていて、まぶたが熱くなった。中国からの留学生は、ボーイズラブをテーマとする“ドラマ”を作った。4年生は、日本のお化け屋敷が台湾へ進出するというドキュメントを制作した。それぞれ力作だった。
美大の授業は終わった。まもなく春休みになる。成績表もつけた。
本日、4人が渋谷に集合することになっている。打ち上げをやろうと、私が呼びかけたのだ。こんなに親密な授業をやったことがなかったから、私のなかで、彼らにご褒美を差し上げたかったのだ。
こうして、私には“弟子”といえるような存在が、この10年間に200人を越える数となった。たまに会うと可愛いものだ。
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