太陽の塔
岡本太郎生誕100年を記念したドラマが流れた。3年前に、少年週刊誌の創刊時代をドキュメンタリードラマで描いたときのことを思い出した。実在の人物をドラマとドキュメントであぶり出すというのは、思った以上に苦労と手間がかかるものだった。だが、長年映像化したい、サブカルチャーの歴史だったからやりがいがあった。このときに集めた少年サンデー、少年マガジンの関係者の証言やブツは今も大切に保存してある。今度、京都に行ったときに、専門家である吉村先生(京都精華大)にでも相談してみようかしらむ。先生は漫画ミュージアムの有力な研究者でもある。
それにしても、岡本太郎のドラマはよく出来ていた。登場する人物があまりに多彩でかつ深い。特に太郎の母かの子を演じた寺島しのぶは実に良い。物語は、太郎の幼少の時代と大阪万国博の時代がカットバックして進行する。第1話は、太郎が万博のプロデューサーに就任し、太陽の塔の原案を思いついたところで終わった。
来週は、その塔のイメージが豊かになって行く過程にスポットをあてるのだろう。
それを見てからのほうがいいかもしれないが、この塔にわが大伴昌司も少なからず関係しているということを、少し触れておこう。
大伴の父、四至本八郎は戦前岡本一平と親交があった。八郎がサクラメントの日系新聞で記者だった頃、渡米した一平を親身になって世話したことから始まる。その友情の証のように、今も、四至本家の玄関には一平の「ポンチ絵」が架かっている。
両家は家族そろって交流した。太郎の代になっても、八郎はよく付き合った。
昭和30年代、まだ海外渡航が解禁になっていない頃、八郎と太郎はある団体の招待で、アメリカ西海岸を視察することになった。在米体験のある八郎を太郎は頼りにした。太郎はパリに長く住んだが、アメリカにはまったくの不案内だった。
団体の決めてあったスケジュールに沿って旅はすすめられたが、あるとき、ぽっかり予定が空いた日があった。八郎は、昔の体験を生かして砂漠地帯にある先住民の部落へ案内することにした。インディアンの村である。そこで、大きなトーテムポールを太郎は目にし、感動するのだった。帰りのバスのなかで太郎は八郎にポールの迫力、感動について熱く語った。
アメリカから日本への帰って来る空路でも、太郎はトーテムポールのスケッチを何度も描き直していた。その姿が、八郎の心に残った。
昭和45年、万国博が始まると、大伴昌司は頻繁に大阪へ取材に出かけた。息子が持ち帰った資料のなかに岡本太郎の太陽の塔があった。それを目にした八郎は、あのときのトーテムポールがこんな形で表されたのだと悟った。八郎の直感では、太陽の塔の原イメージはあの先住民の村に建っていたトーテムポールだった。
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