雪間草
病と闘っていたヤスベエが7日の朝死んだ。私より1つ下の62歳だった。
明るく穏やかな人柄は誰からも好かれた。にこにこ笑って、アンパンか菓子パンをしょっちゅう食べていたから、ころころと太っていた。ファーストネームがやすこだったから、みんなヤスベエと呼んだ。「女だてらに」スポーツ新聞を朝一番に読むのが日課だった。購読紙はスポーツ報知。ジャイアンツが好きで、YGマークの入ったチョコレート色のバッグを提げていた。スカートはめったにはかない。たまに穿いていると、小学校の主任教師のような地味な黒のタイトスカートだった。ゲラ子で、いつも笑いを堪えながら打ち合わせをしていた。姉御肌で面倒見がよかったから、若い人には慕われた。「サザエさん」の花沢さんを見ると、ヤスベエのことを思い出す。生涯独身だった。
彼女が入社した1971年頃、女性のディレクターは学校放送部には数人しかいない。新人の女性は彼女ひとりだった。理科番組を担当することになった。テキパキしていたから、すぐ仕事を覚えた。低学年の理科番組のエースとなった。その後、幼児番組や趣味の番組を担当して58歳の定年まで勤め上げた。ディレクターとして目覚ましい活躍をしたのは、高齢者向けワイドショーの開発だった。うるさそうな学者や古典芸能のボスたちにえらく可愛がられた。
盛岡の出身だったから土地勘があったのだろうか、老後はみちのくに住むといって仙台へ引き上げて行った。実にさばさばと人生を決めて、傍目からも羨ましいほど快活な生き方を選んでいた。
仙台では、ともだち同士が集まった集合住宅に住んでいたと聞く。互いにプライバシーを尊重しながら、付かず離れずの関係で共生していたようだ。普段なら、異変があれば気づくであろうが、年末年始はみな出払っていた。暮れに彼女は発作で倒れた。発見されたのは年が明けてから。わずかの間意識がもどったが、再び昏睡に陥り、一昨日亡くなった。
訃報が入ったとき正直驚いた。一番長生きすると思われた人物のあまりに早い死であったから。こんなことなら、去年、仕事の帰りにでも仙台へ寄って、日本酒でも酌み交わしていたのに。
明るい楽しい酒で、私はいっしょに飲むのが好きだった。
午前4時。目が冴えて眠れない。のそのそ起き出して、ヤスベエの思い出を記している。
お互いロケで全国を飛び回っていてめったに顔を会わすこともなくなっていた頃だ。久しぶりに局の廊下で会うと、楽しげに寄って来て、「あのさ、こないださ、・・・」と言って、人の噂をしたものだ。二人で、威張り虫や口うるさい嫌なやつの棚卸しするのが楽しみだった。
あなにくやみちのく遠し雪間草
昨夜がお通夜となった。
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