男の感情
先日、東大の死生学の研究室を取材した。
講師のYさんからあれこれ話を聞いたが、男の感情を外に出せないことの問題というのが心に残った。
パートナーなり親なりを失くすこと、喪失。それを嘆き悲しむこと、悲嘆。
この悲嘆が男性の場合なかなかうまく出来ない。悲しいという感情を外に出すことなく、抱え込んでやがて厄介な状態を引き起こす。ということが少なくないというのだ。
今朝のアサイチでも、夫と妻の対話というテーマのなかで夫の感情を抑制することの問題点が指摘されていた。抱え込んだものは、DVなどで爆発暴走することが多いというのだ。
おそらく、今の20代ぐらいの若い男性は人前で泣いたり笑ったりすることに抵抗はないだろうが、40代ほどになると、会社人間として社会性を武装させられた男らはなかなかできない。おまけに、幼い頃、男のくせにという言葉で呪縛されてきたから、ますます感情はうちに押し込められてしまう。
私がこのブログを始めたのも、定年という通過儀礼を受け止めることができずにおろおろしていたとき、その「悲しみ」をアウトプットしたいと思ってのことだ。私は60代のわりに感情をよく表すほうだが、それでも仕事が減っていくということに愚痴をこぼすのは情けない、男らしくないという規範に縛られていた。悲しくても悲しいとは言えず、年をとったら若い人に道を譲らないとね、なんて物分りのいい人を演じていた。でも本心はそうでないから時々暴走した。大きな声を上げることもあった。だから、すべてというわけにはいかないが、少しずつ不平不満、未練、愚痴をこぼすことにした。話すのは出来ないが書くことなら出来るだろうと思った。
愚痴をこぼすなら、何もブログなどに向かわず、個人的な関係で友人に語ればいいではないかと思われるだろう。だが、近しい人ほど語りにくい。それと、悲しみの承認はある広がりがないと効果がないのではと思う。その場合の広がりは、いわゆる世間であって、不特定の他者であったほうがいいのだ。と、私は個人的体験から考える。
その結果、私のまったく知らない人から、共感のコメントをもらったりすると、救われた気分になった。
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