表と裏
日本晴れとなった。朝の光がまぶしい。
昨夜、新幹線の中からのぞいた、伊吹山付近の雪景色とまるで対照的な日和だ。
米原から伊吹山、関が原にかけて、一面雪となり、町はひっそりと静まりかえっていた。久しぶりに雪の暮らしを思い出した。幼い頃は、1月2月は雪のなかにあった。障子やガラス戸から入ってくる隙間風、天井から釣り下がった寒もち、練炭の燃えカスを雪路に捨てること、長靴に雪が入ってびちゃびちゃに足が濡れること、氷柱をたたき落とすこと、雪かきで汗まみれになること。
この5年ほど暖冬が続いたから、母が一人で暮らしていても屋根に積もった雪のことなど心配しなくてもすんだ。が、今年は違う。厳しい寒波のせいで、北陸では50センチ60センチの雪がつもっているとテレビは報じている。ふと、雪に埋もれている実家の風景が浮かんだ。
昨日の新幹線は80分遅れた。湖北あたりから徐行運転となり、伊吹付近では一時停止した。あの山の向こうはすべて雪の世界、と思うと、無性に故郷に帰りたいと電車のなかで思った。
浜松まで徐行運転は続いた。
つくづく、表日本、裏日本という言葉の持つ響きを思う。差別的なニュアンスがあるから、今では日本海側、太平洋側というようになったが、どうだろう。厳冬の頃は、まさに表と裏のほうが状況をよく言い表していると思うのだが。このような配慮はむしろ底意地の悪さを感じるぐらいだから、あからさまに表、裏と称したらいいのではないか。
表の代表は、冬の東京だろう。
20年ほど前のことだ。共同制作をしたイギリス人が東京の冬の青空を見て、感に堪えないような言葉を吐いた。「これほど美しい冬があるだろうか。世界でもっとも美しい冬を持っている都市、それは東京だ。どうして日本人はそれを誇らないのか」
ヨーロッパの、特に北欧では冬はどんよりとして重苦しい空しかない。それに比べれば、関東平野の東京の冬は奇跡に近いほど美しいものだ。冬雲たちこめる北陸から来た私とて、その意見には同意する。
翻って、冬の北陸、裏日本はまことに鬱々とした貧乏くさい風景しかない。そのことを恥じ入るような気持ちがこれまでなかったとはいえない。だが、老年に達するにつれ、むしろその重苦しさ、貧乏くささが懐かしく思われるようになっている。
ところで、雪が降るから寒いわけではない。寒さだけなら、高山や雫石あたりのほうが滅法寒い。雪が降ってあたたかくなったということもあった。
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