ルネサンスの空(そら)夢
フィレンツェの名家、メディチ家。その一族の立役者はコジモ・メディチだろう。
彼の代のときに、金融業でしこたま儲けて、飛び切りの金持ちになった。地中海交易で賑わうフィレンツェのリッチマンのなかでも、特別の大金持ちだったと噂された。
その住まいとなっているリカルディ宮殿は、内部はまさに王宮のような絢爛たる建物である。だが、外観は地味な石垣の目立つ普通の建物だ。家の主のコジモもそういう人物であったようだ。彼はけっして贅沢三昧に暮らしたわけでなく、骨董が好きで、書物が好きな趣味人でもあった。孫にあたるロレンツォ・メディチは派手なことが好きであった(彼は豪奢王と異名をとる)が、コジモはそうではない。むしろ、数寄者のような文化人と言っていいかもしれない。
1400年代半ばのことである。当時、教会は東方のビザンチンと西方のローマン・カトリックの東西に分裂していた。ビザンチンはイスラム勢力の侵入で、青息吐息の状態にあった。西側に助力を求めていた。
そこで、合同で会議をやろうじゃないかという機運が起こる。それがフェラーラ公会議。
数年続いたが、フェラーラに疫病が流行り、開催が危うくなった。
そのとき、すかさず声をかけたのが、コジモ・メディチ。「私のいるフィレンツェでやらないか、費用は私が持とう」などと太っ腹なところを見せた。公会議はフィレンツエで行われることになった。世に有名なフィレンツェ公会議だ。この会議のために、遠くビザンチンから皇帝もコンスタンチノープル教会の総主教もやって来た。このときの盛会ぶりを示そうと、コジモは「東方3博士」という寓画にその華やかさを描かせた。いかな地味好きのコジモも、この歴史的な会議を主催したことは誇らしかったのであろう。
今回、「バチカン・シークレット~ミケランジェロの謎を追え」という番組を作っていて、以上のような事情を知ったのだが、私の関心は公会議のことではない。
このフィレンツェ公会議のときに、ビザンチンから大事な書物が万巻運びこまれたのだ。そのなかには、西側ではほとんど見ることが出来なかったプラトンの著作があった。
古代ギリシアの文化は、ローマ帝国の勃興やイスラム勢力の拡大によって消失しかかっていたが、実はビザンチン文化のなかに埋もれて保存されていたのだ。
この到来したプラトンの著作をラテン語に翻訳したのは、メディチ家の主治医の息子、フィチーノだった。彼は語学の天才。プラトンの霊魂論をはじめ、次々に訳し、仲間とともに研究を始めた。これが、フィレンツェのプラトン・アカデミー。新プラトン主義の研究熱が高まった。それまでの、中世の停滞したようなキリスト教文化とは一味違う、清新な思潮がフィレンツェに吹いたのだ。このアカデミーから、ルネサンスが全イタリアいやヨーロッパに散種される。
プラトン・アカデミーの門前に、少年ミケランジェロの姿があってもおかしくない。この場所から1丁ほどしか離れていない区域に、サンマルコ庭園があって、若いアーチストたちが瀬在琢磨していた。そのなかにティーンエジャーのミケランジェロがいたのだ。
まさに、この時期は激動。(また、作業が始まったと呼びに来たので、この記事中断)
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