昭和サブカルチャー
大阪万博ガイドブックの復刻本を手にした。平凡社から出た昭和サブカルチャーのシリーズのひとつらしい。
昭和45年、1970年の3月にオープンしたこのイベントは、私にとっても忘れがたいものだ。22歳、ちょうど大学卒業にあたり、初めて社会人として転勤した地大阪で開かれていたのだ。半年の会期で私は3回ほど入場したが、あまりの人ごみと待ち時間の長さにうんざりしたことを思い出す。だから、人気のパビリオンを避けて、インドネシア館とかスイス館とかへ脚を運んだ。シシカバブーなどという食べ物に初めて遭遇した。だが、今となって考えると、もっと時間をかけてアメリカ館の「月の石」を見るとか三菱未来館の円谷映像展示とかフジパンロボット館の手塚ワールドとかを見ておけばよかったと後悔する。
動く歩道に驚き、モノレールに未来を感じた。
だが、この会場に行くことになんとなくわだかまりというか後ろめたさを感じていた。というのは、これは国民の意識をたぶらかす策動だという批判に共感する立場をとっていたのだ。この万博にはベトナム戦争や公害から目をそらそうとする意図があるもので、そういうものに乗ってはいけないというプロパガンダに多分に影響されていた。「万博粉砕」というスローガンはあちこちで耳にし目にした。同僚の新人ディレクターが「今日のパビリオン」などというデイリー番組に走り回っているのを苦々しく見ていたことも事実だ。
でも、ワンダーランドは一度は味わってもみたいと思っていたから、人知れないように平日の夕方などに千里まで出かけていくこともあった。
このイベントを、少年マガジンでは巻頭図解でたびたび特集を組んで紹介していた。図解されたパビリオンは魅力的で、未来を解説されているようでわくわくした。振り返ってみると、そのディレクター・デザイナーは大伴昌司であることを今になって知る。今回の復刻本と大伴の図解と比べると、圧倒的に大伴のほうがよく出来ていて面白い。やはり、大伴は天才だ。
懐かしく読みながら気がついたことがある。このイベントの花形はコンパニオという女性のパビリオン案内人だった。コンパニオンは私と同世代の女子たちだった。選ばれることは才色兼備のあかしのようだったから、たくさんの人が応募した。
会場に行ってみると、羨望とねたみの交差するなかに、彼女たちはにこやかに立っていた。当時の女子大生の憧れの職業はコンパニオンとスチュワーデス(キャビン・アテンダントとはいわない)だった。美形でスタイルも抜群の女性ばかりと、思いこんでいた。
が、今当時の写真を見ると違う。けっこう太目の体つき、ぺったりしたアジア顔、垢抜けない制服、着こなしだということに気づく。
意外だった。あれほど美しく思えたコンパニオンは幻想だった。加えて、20代の彼女たちの顔に、加齢した老け顔が重なって見えた。当時は、まったく見えていなかったはずだが、今振り返って見ると、老年化した顔が彼女たちの顔に浮き上がっている。
むろん、他人のことを言えたわけがなく、自分だってその運命を辿っていると知ってはいるものの。
今年開かれた上海万博にその記録は破られたとはいえ、当時、6400万の人がこのイベントに向かったのだ。テーマは、「人類の進歩と調和」だった。大阪万博のことは高度成長期の伝説になっていくのだろう。それにしても、あの頃の大阪は活気があったし、いろいろな意味で面白い場所(トポス)だったよ。
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