覚えているか忘れないでか
旅に出ても車中で読書ばかりしていた。1940年の頃の国際情勢の資料を読みあさっていて、窓外の景色には目もくれなかった。
昭和15年から16年の時代だ。日中戦争がいっこうに解決の兆しを見せず、アメリカやイギリスからの圧迫が日に日に重く感じはじめていた時期だ。そこまで追いつめられてはいないが、現在の日本を取り巻く環境と似ているような気がする。景気は恢復せず、政治は渋滞し、日中、日露の外交関係でも後手後手に回り、その場しのぎの対応だけが残るという、今の気分というのは、アジア・太平洋戦争の開戦前のそれと似ているというのは言い過ぎだろうか。
20年に14回も宰相が交代し、戦後政治の膿みのようなものがだらだら流れ出すこの時代というのは、厳しい就職難や後期高齢者の不安などとあいまって閉塞感を醸成していると思えてならない。
41年当時、そのもやもや感を吹き飛ばしたのが、12月8日の日米開戦だったのだろう。「帝國陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戰鬪状態に入れり」という有名な大本営発表が出た朝だ。この真珠湾攻撃をめぐり戦後さまざまな憶測が飛んだ。日米交渉が国務長官のハルと野村吉三郎大使の間で行われていたが、断交の通告の前に、真珠湾を日本が奇襲したため、アメリカ側はルール違反と日本を非難し、その復讐を誓った。「リメンバー/パールハーバー」だ。この通告が遅れたことは日本外交団の失策であったとか、アメリカ側は日本の奇襲を事前に知っていたとかの言説が、戦後60年余ずっと言われてきた。ローズベルトの陰謀といわれる説だ。たしかに、この襲撃により、アメリカ国内の世論は日本を撃てという気分にまとまったという意味では、ローズベルトには都合よかったということは言えるが、しかし2400名余りの戦死者を犠牲にしてまでありうるであろうか。
なにより気になるのは、アメリカ国民が真珠湾を忘れるなという合言葉で、戦争に向かったことだ。卑怯な日本に仇をうてと言わんばかりのスローガンとなった。これが、原爆投下へのエクスキューズにもなっていくのだ。真珠湾と広島・長崎。戦争の初めと終わりに起きた出来事は、私にとって深い関心を引き出す。
1988年に、私は「世界はヒロシマを覚えているか」という番組を制作した。一方でアメリカには「リメンバー/パールハーバー」という標語が定着していたという事実。これらをどう捉えようか。
シカゴに原爆投下機の乗員を訪ねたとき、彼は自宅に戦争資料館をもっていた。そこにヒロシマに投下されたきのこ雲の写真に次の言葉があった。
「リメンバー/パールハーバー、この一発のキノコ雲が戦争を終結に導いた」ヒロシマと真珠湾はいつでも対で持ち出される。
此の問題を考えているとき、日米外交史の泰斗K先生とお会いした。先生は先年京大を退職し、現在東京の大学で教鞭をとっている。久しぶりの帰京で研究室に顔を出されたのだ。このパールハーバーの話題に及んだとき、ちらりと感想を述べられた。「ローズベルトの陰謀のような説が疑念もなく公の出版物に登場する時代なのですね。この真珠湾の出来事は、それまでの地域戦争でしかなかった日中戦争とか英独戦争とかが、いっきに世界戦争のステージに変わったという点がポイントだと思うのですが」
はっと思った。なるほど、アジア・太平洋戦争が世界大戦という姿に変容する。ここに重大な「視点」がある気がする。
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