原城の秋
私の長崎時代は昭和57年からの4年間になる。今から25年ほど前のことだ。長崎大水害の年に赴任してバブルの年に東京へ戻った。ディレクターとしての本格的な修業を始めたときだ。
赴任してまもなく、秋のはじめに「くんち」を見て感激した。あの大水害で打撃を受けたにもかかわらず、長崎の人たちはみな総出で祭を盛り上げていた。キリシタンゆかりの町と聞いていたが、唐寺や真宗のお寺の甍が広がり、至るところに墓地があった。エロスとタナトスが豊かに混在していた。長崎の町が珍しくて1年ほど見て回った。浦上天主堂、大浦、唐寺群、グラバー園、大波止、・・・。市内の移動はちんちん電車を使った。「蛍茶屋」「正覚寺」行きの電車が好きだった。春秋の修学旅行シーズンをのぞけば、電車はいつも空いていた。
バスの行き先で「女の都」という不思議な名前があった。まるでギリシア劇のような名称だと、一人でほくそ笑んでいた。「女の都」。めのと、と読む。
3年ほど経ったころだ。長崎の町にも少し飽きて、島原へ出向くようになった。前取材のため、局車で現地を訪れることが2度3度続いた。電車で行くとなると、諫早まで出てそこから島原鉄道に乗り換えることになる。行き帰りだけで8時間近くなり、日帰りということにはならない。効率が悪いので、車利用となったのだ。それでも往復5時間はかかったと記憶する。島原半島に入ると、長崎や諫早と地質が違い、風景も変化に富んでいた。海のすぐ側まで山が迫っていた。島原へ向かうとき、小浜温泉から雲仙の山間に入って、山越えして島原へ行くコースをとったと記憶するが、はっきりしない。
島原湧水と島原そうめんの取材で出かけた帰りに、原城へ寄ったことがある。あの島原の乱の舞台となった古城だ。
一応、観光地になってはいたが、私が訪れた昭和60年当時誰もいなかった。城内は畑になっていて、農作業する人が数人いただけだ。天守閣も櫓も何もない。
城の石垣が残る岬の突端まで行くと、前方に海が広がっていた。有明海だ。この海の果てに天草があるはず。
1時間ほど、城跡の草わらに座って海を見た。ぼんやりしていると眠くなった。寝転んで空を見上げると、秋のうろこ雲が空一面に流れていた。
城の中に、矢じりか鉄砲の弾跡でもないかと探したが、むろんそんなものは見つかるはずもない。ここで幾万という人たちが命のやりとりをしたとは思えないほど、穏やかで静かな場所だった。小1時間ほどいて城山をくだった。一般道まで出る行程を覚えている。段々畑に草が生い茂り、白ちゃけた細い道があった。がたがた車に揺られながら、ひなびた城内の悲哀を見ていた。
城を出たのは夕方近かったのか、長崎の町に帰り着いたとき、陽はとっぷり暮れていた。
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