夢の道
好きな矢沢宰の詩を読んでいた。
汽車
毎夜ベッドが聞いていた
汽笛に乗って
今、私は家に帰る
定年という区切りで、机を整理することにした。
なつかしい取材ノートがでてきた。開いた。
ノートから夢の道が広がった。
25年以上前の、道が・・・
それは長崎本線の佐世保へ向かう鉄路だった
電車は夕焼けに向かって走った。
いや、夕焼けを追っていた。
急行も止まらない駅でおりた。
夕焼けを探す番組を取材していたのだ。
いっしょに歩いていただいたのは、詩人の吉野弘さんだった。
吉野さんの詩は昔から好きだった。
代表作の一つ、「夕焼け」がとりわけ好きだった。
――やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにはあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで
吉野さんの詩には、ほかに夢街道や夢焼けというのもあった。
その吉野さんが、この西海道でどんな思いをつむいでくれるのか、
私は期待した。
この旅の途中、吉野さんは長崎で原爆の日と出会う。
その日、長崎の浦上で「凍焦土」という言葉を石碑に見つけた。
原爆投下後の焼け跡をさす言葉だ。焼けて土が熱いにも関わらず、
人々には言い知れない寒さが襲った。それを明かす言葉「凍焦土(いてしょうど)」
詩人はその言葉に火傷した。

夕焼けの旅より3年ほど前にさかのぼる。
私は「ゲルニカ」を探す旅に出た。天才のピカソ生誕百年の年にあたっていた。
彼が生まれたのはスペイン。近代の歴史の中で、複雑な光を放つ国だった。
栄光と悲惨、名誉と恥辱、友愛と裏切り、相反するものが共存している国。
闘牛場を真っ二つに分ける
光と影で、
この国のことを少し分かったような気がした。

ゲルニカ遠望
1937年、休日の朝3機の爆撃機が、市場を襲った。
ゲルニカは無差別空襲の始まりの地と言われる。
ゲルニカは美しい村に回復していたが、人の心は傷ついたままだった。
かつては最後の無差別空襲が長崎だと言われた。が、
そうではないことは、その後の歴史が証明することになる。
この取材からそれほど時間が経たないうちに冷戦が終わる
ことになるが、当時の私は知らない。
ゲルニカの旅はスペインからパリへと移動して、続いた。
ピカソが「ゲルニカ」を描いたアトリエにいったのだ。
当時のままオーギュスタン街にあった。歴史がそこに立っていた。

あの年に生まれた息子が、今では仕事をしている。
時間が一世代流れたということであろう。
短いようでも、この20余年いろいろなことがあった、起こった。
三十代の取材ノートに残した道、その道は今日も続いているのだ。
ノートを読み終えると、あたりは薄暗くなっていた。春たくる宵である。
春をしむ心に遠き夜の雲 臼田亜浪
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