咲く花に~安江さんの思い出~
金沢に横安江町というところがある。私がいた頃は、アーケードになっていたが、江戸時代から続く古い商店街だ。真宗の盛んな土地柄、仏壇屋が軒を連ねていた。商店街をぬけた所に広壮な本願寺別院があるのだ。
その横安江町と関係があるかどうかは知らないが、安江さんの実家は仏壇の金箔加工を稼業としていた。そればかりか金箔技術、文化を集めた資料館も父上が作っておられた。「シリーズ授業」という番組で、安江さんと共にその資料館を撮影したことが、私にはある。

安江さんは、ジャーナリズムの世界では少ない私の大学の大先輩だ。
だが、安江さんと知り合うことになったのは、大江健三郎さんを通してだ。安江さんは、編集者として数々の名作をものしておられる。中でも、岩波新書『ヒロシマノート』は名高い。1963年の夏に開かれた原水爆禁止大会の模様をルポしてもらうため、安江さんは新進の作家大江健三郎を広島へ案内した。そこで、広島は大江さんの人生とジャストミートする。大江さんにとって広島との出会いは人生論的だけでなく、文学のうえでも重大な意味をもつことになる。この詳細はいずれ改めて書くことにしたい。
かねてから尊敬していた安江さんと数年間交わることができたが、残念なことに安江さんは1996年にクモ膜下出血で倒れ、その2年後63歳の若さで亡くなったのだ。
この安江さんが亡くなったとき3人が弔辞を読んだ。政治学者の坂本義和氏、大江健三郎氏、そして池明観氏だ。
池先生と安江さんの中も深い。これまた傑作の誉れが高い『韓国からの通信』の筆者T・K生は池先生のことであり、編集者は安江さんだった。二人は韓国の民主化のため、文字通り命をかけて闘ったのだ。
日韓関係の長い歴史の中でも、これまでの40年は激動であった。幾多の困難が現れ、日本と韓国の間に危機と緊張がたびたびあった。そういうとき、安江さんは冷静に分析して未来に希望をつないできた。面白いことに、本人の口調は悲観的なのだが言っている内容はそうではなかった。
安江さんは、文学は分からないがと言いながら、折に触れて句を作っていた。亡くなられたとき、私は追悼の短い映像を編集した。其の映像の巻末に、いかにも安江さんらしい「俳句」をインサートした。
咲く花に 姿正せと 小雪舞う
蛇足だが、北国金沢では桜咲く季節に時ならぬ雪が降ることがあるのだ。
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