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リミックス版 霊の話

リミックス版 霊の話

*ここ数週間にわたって、「霊の話」として連作してみたものを一本化してみようと考えた。つないで点検したら、事実関係の不全が分かったり、誤字があったりといろいろなバグが分かったので、それを補修しながら形を整えてみた。

奇妙な訴え

 長崎に勤務したのは、被爆から40年目を迎える頃だった。原爆の悲惨を訴えたいとさまざまな情報を探し集めていた。
しかし、戦後40年近く経って、原爆の爪痕そのものを見つけることは難しくなっていた。そこで、原爆の遺品や記録を持っていないかと呼びかけることにした。「形見」のキャンペーンと銘打って、朝のローカルニュースのあとにお知らせを出した。
告知の放送をした直後から、続々と市民から情報や品物が寄せられるようになった。時計、衣服、アルバムなどいろいろなものおよそ百数十点が手元に集まってきた。これまで世に知られることなく私蔵されていた遺品の数々。これらの由来や被爆の経緯を調べて、「原爆の形見」というドキュメント番組を私は制作することにした。その取材を行っている最中だった。ある市民からの問い合わせが入った。原爆について相談があるという。電話では詳しいことが言えないから直接話したいという。私は応じることにして、局の会議室で待った。
やがて、1時間ほどして、その男性が現れた。城山町の奥に住むという50代の男性だった。身なりはこざっぱりとしていたが、けっして裕福そうにはみえなかった。長崎弁丸出しだが、話し方はしっかりしていた。
「うるそうて、困っとるんですわ」と言う。何がですかと私は問うた。「うちんがたの裏の竹やぶから、しょっちゅう出て来られるとですたい」その人は胸の前に両手を突き出して、勢いこんで話す。
「あの原爆でぼろぼろになった人らが、いっぱい入り込んで来るので、困っとるんですわ」
怪訝に感じた。40年も経っているのにまだ暮らしが破壊された人たちがたくさん残っているとは。「どのぐらいいますか」と私は尋ねる。
 「2、30人はおらすと・・・」
 「そんなに、ですか。原爆手帳は持っていないのですか」
 「持っているはずはなか」やや怒った口ぶりになる。とまどった。この男性は何を訴えようとしているのか、私に何を要求しているのか察することができない。
「その人たちは、なぜあなたの家に来るのですか」
 「ちゃんとは分からんが、なんとかしてほしいということじゃないやろか」
「どんなことをするのですか」
「うちの家に上がり込んで、うろうろバタバタするんです」
ここではっとした。その人の目を見た。真剣だ。気が触れているようにはみえない。
その人が言うのはこうだ。長年にわたって、裏の竹やぶに原爆で成仏できない霊が居座っている。それらが家にやって来て騒ぐ。このままでは心落ち着かないから何とかならないだろうかという相談を、その人は持ち込んできたのだ。
やはりこういう話があるのだ、戦争関連の番組を作っているといつかこんな問題が起きるのではと予想もし恐れも抱いていたが、とうとう私の前に現れたと思った。未知との遭遇である。私はすっかり戸惑ってしまった。
 実際に家に来て検分してほしいと、その人は言う。
 だが、何かがいるわけではないから、私のような霊感のないものが見ても、おそらく何も分からない。いや、そんな摩訶不思議なことに関わりたくないというのが、正直なところだった。私はなんだかんだ言い訳をして、その人にお引き取りを願う。が、摩訶不思議なことはそれだけで止まらず、さらに新しい話が、後日持ち込まれることになる。

無縁仏1万体

昭和59年のことである。被爆から39年経っても、身元の分からない遺骨がある寺院に大量に残っているという噂を聞いた。噂の場所は長崎駅前にある浄土真宗の教務所。その裏庭に御堂があって、そこにりんご箱大の遺骨の入った木箱が30以上積み上げられて確かにあった。
長崎の浦上では原爆が投下された後も、戦後長く破壊の爪あとが残っていた。終戦となって、外地に出征していた僧も長崎にもどってきた。飽ノ浦の住職後藤道照もその一人である。彼らは故郷の荒廃に驚いたばかりか、あちこちに散乱する遺骨の無惨さに衝撃を受けた。遺体を焼却したあと、取り残された骨であろう。真宗大谷派の当時の支部長が、野ざらしになっている遺骨を弔おうと提案して、大谷派長崎支部全体で遺骨収集に取り組むことになった。昭和20年の秋から半年続くことになる。後藤道照は檀家の人たちとともにその運動に参加する。毎日、リアカーを引いて爆心地深くまで入り放置された骨片を拾い集めた。
長崎刑務所での遺骨収集の時のことだ。今、平和祈年像が立っている長崎平和公園は戦前刑務所が建っていた。爆心から100メートル足らずの直下にあったから、コンクリートの頑丈な刑務所はあっと言う間に破壊された。そこにいた刑務官も受刑者もすべて即死したはず。跡地には折れ曲がる鉄柵がわずかに姿をとどめ、そのなかに直立したままの骸骨があった。後藤は仏に向かって念仏を唱えたあと、その骨を収容しようと腰骨に触った途端、バラバラっとその骸骨は崩れ落ちた。それまで生きているかのように立っていた骸骨がただの骨片に成り果てた。収集されるのをそれまで待っていたかのような出来事だったと、後藤は後日感想をもらしている。原子爆弾の非人道性をそのとき後藤はまざまざと感じた。
道ばたに転がる骨は必ずしも人間のものとはかぎらない。犬や猫のものもあったと思われる。丸ごとであったり骨片であったりさまざまな遺骨を、真宗大谷派の人たちは雨の日も風の日も集めた。そうやって集めた数、およそ1万体。昭和21年の夏、その無縁仏の供養が長崎教務所で、占領軍の出席も得て盛大に行われた。この無縁の遺骨の存在は、当初は知られていたのだが、しばらく経つと市民から忘れ去られていった。
 38年後、その忘れられた存在を私は知って、再度その遺骨の身元調査を行うことにした。1万の遺骨のなかには布に包まれたものやメモや名札の付着したものなどがあったからだ。それらを手がかりにして身元を割り出すことができないかと捜索をした。その過程を私は番組にした。なかに深井修と書かれた布の名札が残る遺骨があった。若い男性だと推定できた。いろいろな名簿から探ったが身元はいっこうに割れない。どうやら動員学徒か徴用工だったようだが、この人物は地下(じげ」の者ではないのではという疑念が出てきた。おそらく、他所(よそ)から来て、軍需工場で働かされていたため、身寄りも知り合いもないのではなかろうかと推定された。無縁仏は、それなりの理由でそうなったのだということを改めて知る。
こういう経緯を描いた番組「原爆無縁仏・1万体の証言」を制作し放送した。長崎の県域放送だったにも関わらず、小さくない反響が起きた。そのなかに、フシギな問い合わせが混じっていた。亡くなった妹の遺骨が、あの1万体のなかに入っていると夢でお告げを聞いたという・・・。

甦った妹の名前

被爆39年目の6月に、原爆で無縁になった人たちの遺骨についての番組「原爆無縁仏・1万体の証言」を放送したところ、さまざまな反響があった。そのなかに、差形姉妹がいた。5人姉妹で、長姉の橋口衣子(63)と次姉の平山文江(60)の2人が、4女の和子と母の遺骨を求めて、私のところへ連絡をとってきたのだ。
爆心から500メートルの山里町にあった差形家では、当日、父と5女が家にいて犠牲になった。母と4女は買い物に出かけていて遭難したと推定され、その遺骨は長く行方不明のままにあった。その不明の2人の遺骨は、私が報告した真宗大谷派長崎支部の御堂に保管されていると、平山は夢でお告げを聞いた。そこで2人そろって私のもとにやって来たのだ。
私は2人を連れて、筑後町の無縁仏が保管されている真宗大谷派長崎支部へ行った。庫裏を回って裏庭のその御堂の前に立ったとき、平山は電気で打たれたように立ち止まった。「夢で見たとおりのお堂です。やはり、和子と母はここにいるのだと今確信しました」とうめくように呟いた。傍で、顔がこわばった橋口も手をそっと合わせていた。

話はここで終わらない。
前から気になっていた4女、和子の学籍を確かめたいと、母校の純心高女(現・純心女子高校)に2人は出向く。以前、電話で問い合わせたときには、そういう名前は名簿にはないと断られていたのだが、あえて再調査を願い出ることにしたのだ。
純心女子高では、校長の松下ミネシスター自らが応対に出た。この学校には原爆の犠牲になった生徒の名前を刻んだ殉難の碑がある。そこには差形和子の名はない。昭和7年生まれという手がかりで、ほかの名簿や資料にあたっても見当たらない。同窓会の役員に電話で確かめても記憶がないという返事しかない。もしかすると、4女が通っていた学校は違っていたのかしらと、2人の姉に不安が過ぎる。
その妹が通学中に起きた出来事をよく語っていたというエピソードを平山が話しはじめた。昭和20年に入って、戦時色がつよくなっていた。町全体が張り詰めたなかで、学校の門前にいつも立っている若い男がいた。心を病んだ若者らしく、独り言を呟きながら両手を広げて引っ張ったり縮めたりしていた。その仕草が滑稽だと、4女の和子はいつも恰好を真似ながら話していた。そう平山が語ったときだ。
松下シスターの顔色が変わった。立ち上がって、電話器まで行き、遠方へ電話を掛け始めた。どうやら東京在住の卒業生に連絡をとっているようだ。「ええ、差形和子さんという名前です。覚えていますか。」声が大きくなった。「体が大柄な人・・・」どうやら、電話の主は和子のことを記憶していたらしい。その特徴をシスターに告げたようだ。
2人の姉たちは、その途端、大粒の涙を流した。次々に出てくる涙をハンカチで拭う。
電話を終えたシスターが2人の前に来て、深々と頭を下げる。「これまできちんと記録ができなかったことを申し訳なく思います。たしかに、一人の証言者がみつかりました。差形和子さんはこの学校におられました。」
2人の姉は何度も何度も松下校長に頭を下げていた。後日、殉難の碑に、差形和子の名前が刻まれた。妹の名前が甦ったのである。

この妹の名前にまつわる出来事はすべてカメラの前で起きたことである。一部始終、私は撮影して、九州ローカル放送の「情報ナウ」という番組で放送することになる。
これは偶然起きたことだろうか。私にはそう思えない。ある時点から、何かに導かれるように事態が変化していったことを、私は実感した。


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by yamato-y | 2010-08-20 18:33 | Comments(0)
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