世代論を排すべきかや
ジャンルの青春で、ノーテンキなことを書いている自分が少し恥ずかしいが、それでもお便りをいただくと嬉しいものだ。「峠の山賊」さんが、あの文章のなかで特急の機関手は機関士の間違いではないかとご指摘された。なるほど、あのころのつばめの運転士といえば国鉄のエリートのなかのエリート。単なる役割分担の手ではなく士かもしれない。だが、なぜ士が偉くて手が格下になるかが、いまひとつ理解できない。線路工夫や郵便配達夫の夫がなぜ忌避されるのかがいまひとつ私自身分かっていない。士という言葉には男性性というのが含まれていると思われる。武士の士であり居士の士であるから。
だから看護しは看護士と表記せず看護師と書いて中立性を確保しているのだろう。
さて、コメントをいただいた「峠の山賊」さんも私と同世代の団塊組ではないだろうか。なんだかんだ言って同世代の意見は共鳴もするし、理解もしやすい。
このところ、加藤典洋の敗戦後論をめぐっての議論に関心をもっている。2000年ごろに起きた議論で、敗戦のよごれとねじれを解消するためにいかにあるべきかという議論を、加藤は打ち立てていた。
当時の教科書を考える会の動きなどと同一視されて、すこぶるインテリには評判の悪かった議論である。後発世代の高橋哲哉はこの加藤の意見を内向きの議論として批判した。高橋の意見に与することが多かった。印象論でいえば、高橋のほうが加藤を論破したということで決着したと思われたが、ここへ来て加藤再評価の機運が高まっている。
ひとつは、高橋よりさらに下の世代から発せられた議論である。名古屋大学の修士の論文がもとになった平凡社からの『日本人に戦争をした「当事者意識」はあるのか』(伊東祐吏著)で、副題は「敗戦後論」を超えてとある。
この著では、加藤批判の細部を検討して、その迷妄を修正しつつ、加藤の意見に対しても新しい批判を加えるという意欲的な試みが見られる。まだ全部読み終えていないが、指摘の新鮮さに目を奪われている。
一方、同年生まれの加藤自身の新作『さよなら、ゴジラたち』も私の関心と重なってとても興味深い論説集となっている。なぜ、ゴジラ映画が20数本も作られることになったか、日本人の無意識に触れた論考である。私と同世代だから、彼の引用する体験や語り口のひとつひとつがびんびんと感じられる。
最近、彼や竹田青嗣、橋爪大三郎といった同じ世代の意見にかなり共鳴しやすくなっている。世代論はナンセンスと排してきたにもかかわらず、今、私のなかで起きていることをないとはいえない。
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