ジャンルの青春
新幹線のホームに立っていた時、不意に歌が唇からこぼれた。
♪ ぼくは特急の機関手で
可愛いあの娘は駅ごとに
誰が歌ったかも知らない、50年代の流行歌。最後まで覚えているだろうかと半信半疑で歌い継いでみた。
♬ いるけど3分停車では
キスする暇さえ ありません
東京、京都、大阪 う〜う〜ぽぽ
全部歌えた。新幹線がまだ走っていない時代、東海道線の特急はつばめだった頃だ。作詞は三木鶏郎あたりだったのじゃないかな。都会的な匂いのする流行歌だった。当時、私は幼稚園か小学1年生の頃だ。意味も分からないまま、此の歌や「ケ・セラ・セラ」とかを歌っていた。
この時代に藤子不二雄たちはトキワ荘にやってきたと、川本三郎が書いている。市川準の映画「トキワ荘の青春」を主題とするエッセーでだ。この映画に登場する若い漫画家たちの貧しくも豊かな青春は、ジャンルの若さに由来すると川本は喝破する。
《映画もテレビもそうだが、そのジャンル自体の青春期に自分の青春が重なった世代は幸福だ。自分の努力でこれから好きな世界がどんどん良くなっていく予感がある。未完、形成途上の良さである。》
この言葉はまさに私自身も実感するところだ。私がテレビの仕事に就いたのが1970年、昭和45年。テレビの青春の尻尾の時代だ。テレビは終日放送でなくロケにはビデオカメラでなくフィルムカメラを使い、ラジオがまだ力をもっていた時代だ。
その直後に「浅間山荘事件」で国民の大半がテレビに齧りつくという出来事から、テレビは「王様」になっていく。その流れのなかで、私は学校放送という地味なセクションで、テレビの手法というものを少しずつ学んでいった。最初の海外取材が1980年だから、10年間スタジオで音楽番組を作っていた。鳥塚しげきや堀江美都子たちとわいわいやっていた。収録のある火曜日はいつも午前サマだった。本番が終わると必ず番屋で焼酎のお湯割りを飲んで、六本木まで遠出した。金がないから俳優座の裏のスナックでウィスキーをちびちび舐めながら、番組の段取りや構成についてワイワイ議論していた。なんだか分からないがお祭り騒ぎだった。
今になって気がつくのは、私個人の青春というより、テレビが青春だったのだということだ。たしかに幸せだった。
今話題になっている朝ドラ「ゲゲゲの女房」も、貸本漫画から少年雑誌ブームの頃という「青春」が背景にあるから見ていて気持ちいいのだろう。
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