包みなおしたのは何か
故郷からの帰り、新幹線のなかでずっと考えこんだ。午前中に見たブツは、父の戦争中の遺品として扱ったほうがいいのかどうか。迷った。断定する根拠が弱いから、どうとでもその品物の意味を解釈することができる。兵の日のブツは何か。
父が中国戦線に出陣したことは知っていた。自動車部隊と暗号通信隊にいたということは聞いていたが、何処の部隊でどんな作戦に参加したのか何も知らない。今朝、父の戦友会の名簿が出てきた。星友会という名称になっていて、意外に可憐な名前に戸惑う。昭和55年付けの住所録で、発行人は梅田という人物。原隊の正式名称は、関東軍旧独立自動車第四十九大隊四中隊となっている。北支にいたというのは、この中隊にいたことを指すらしい。ここで車の運転を覚えたので、復員後、かなり早い段階で父は運転免許を取得する。もっとも父が最初に乗ったのはオートバイで結構跳ばし屋だった。自動車の部隊というとスマートにみえるが、輸送専門の輜重兵だったようだ。
星友会の名簿を見ていくと、滋賀県と京都の出身者が多い。福井、石川は名簿の後半にある。どのような軍歴があるのか分からないが、中国内をあちこち転戦したらしい。実際の戦闘にも遭遇したようで、私が幼い頃、父は自分の腹の傷を見せて、「もう少しで死ぬところだった」と語ったことがある。本当かどうか分からない。軍隊帰りはそういうことを吹聴したがるということを、ドキュメンタリーの仕事についてから知ったから、父の話もあてにならない。たしかその話を聞いたのは私が小学校低学年だった頃で、長じてからは戦争のことを父はほとんど語らなくなった。
中国で敗戦をむかえて引き揚げて来るまでに1年以上経過している。行軍しながら悲惨なめにもあっているだろう。苦しいときもあったにちがいない。だが、結果として中国への侵略に加担していったではないかと私は大学時代に父を難詰したことがある。「うるさい。おまえなんかに分かるか」と怒鳴られて親子喧嘩にもなった。以来、戦地の話をしなくなったし、私も聞くことがなかった。
父が退職してからは、年に一度開かれる戦友会にいそいそと出かけていくことは知っていたが、どんな会合であるかはまったく知らない。
父が死んだあと、母はときどき父の戦争について少しずつ語るようになった。むろん、母と結婚する前の時代だから、母も話としてしか知らない。その母がこんな歌を詠んでいる。
兵の日の夫の生命を守りくれし古りたる水筒を包み直し置く
そういえば古い水筒を見たおぼえがあると思って、今朝は仏壇周りを探した。両親はクリスチャンなのだが、北陸の真宗の家系だったから仏壇が家の真ん中に鎮座している。大事なものはこの仏壇の引き出しとか段下の小部屋に入れてあるはずと、私は見込み、いっさいがっさいを外に引き出して並べた。
ビニールで2重に包まれた飯盒が出てきた。丁寧に紐掛けされている。これが父の戦争の遺品ではないかと推定するが、母の短歌の水筒とあわない。かといってほかに遺品らしいものはない。
最終的に、これが父の戦地の形見だと私は判断することにした。
おそらく、母は短歌にするとき語呂を合わせるために、飯盒を水筒にしたのではないだろうか。生命を守るにふさわしいイメージは飯盒より水筒と、その部分を“作った”のではないだろうか。実際の兵隊時代の形見は飯盒だったと思われる。
その鉄の飯盒は錆びてもおらず形も残っているが、蓋が堅くなって開きづらくなっていた。気張って開けてみると、底が黒ずんでいた。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング