夏座敷
昼からビールを飲んでいる。あまりに暑いので昼飯はやめてビアのみの昼食とした。
庭に面した座敷に座り込み、明るい日を浴びている庭の苔の青さに目を奪われている。
田舎へ帰ってうれしいのは、畳に寝転がることだ。ごろごろしながら、時代小説か俳句の本を紐解いているときが、何も考えないでほっとする。
黙っていても、母がいたときは冷たいものやビアが出てきたが、今では自分で買い込んで用意もしなくてはならない。それでも、まだこの座敷があるからいいが、早晩取り壊されるようになったら、この夏座敷の快感は味わうこともなくなる。
変な気持ちだ。まだ在るにもかかわらず、不在のようにして考え感じている。床の間に残されたお茶の風呂も母の机も、壁に掛かっている大江さんの色紙も、写真立ても、衣紋掛けも。外の光があまりに激しいので座敷は薄暗がりのなかにある。
夏の座敷に座って、真昼の通りに耳をすませても物音ひとつしない。うだるような暑さを避けて人も犬も家中でひっそりと潜んでいる。
ダンボールの箱から大学時代のプリントが出てきた。文芸部の友人からもらった謄写版の詩集だ。伊東静雄の「わが人に与ふる哀歌」の抜き刷りだ。冒頭の「晴れた日に」の一連がずんと胸を突く。
とき偶(たま)に晴れ渡った日に
老いた私の母が
強いられて故郷に帰って行ったと
私の放浪する半身 愛される人
私はおまえに告げやらねばならぬ
誰もがその願ふところに
住むことが許されるのでない
放浪する半身――人の一生とは面白いもの。たいして意味がある人生と思えなくても、生きていくことから降りることもできず、さりとて大死一番大勝負に打って出ることもなく。願う場所には住むこともできず。
芭蕉の高野山での句を思い出した。
父母のしきりに恋し雉子の声
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