今頃になって
敦賀の実家に戻って、母の遺品を整理している。短歌のノートがいくつもあって、それをパソコンで転記もしている。機械的に作業しようと思うが、読み始めると、母の心情を思って手が止まることもしばしばとなる。
特にあの戦争のときのような話は濃い。ぽつんぽつんと語って聞かされた話を、私はつなぎながら短歌ノートを読み解くことになっている。戦争中、母は16歳から19歳の間である。勤労動員されていて、敗戦の報は疎開作業の最中に聞いたとか話していたことなどが、短歌となって残っている。
三里の道大八車押し行きて辿り着きれば戦終りていたり
あっけない幕切れとなって呆然とした心情は分かるが、詳細が掴めない。こんなことなら、元気なうちに聴いておけばよかったと後悔する。
と考えていたら、母はこんな歌を詠んでいた。
平成13年5月9日
折にふれ伝へおきたく思ひあれど子はあわただしく帰りゆく
母はあのときもっと話したかったのだ。それを私は面倒くさがって、「また、今度」と言い捨てて私は東京へ帰って行った。
母のいない、父のいない家に深夜ひとりで手紙や日記、ノートを読んでいると、台所あたりから母がひょっこり出てきそうな気がする。「あんた、帰っとったん?裏の畑に居たから気がつかんかったわ」と呼びかけてきそうだ。「洗濯物があったら、全部洗濯機に放り込んでおいて。お風呂が沸いているからごはんより先に入る?」とかなんとかぶつぶつ言いそうな気がする。去年の今頃はまだ母も息災であった。まさか肺に癌細胞が増殖しているなんてことはけぶりにも気がつかなかった。祇園祭の山車の話をすると、楽しそうに聞いていた。
こんな歌も母は残している。
真夏日の暑き日差しを避けてゆく路地に白き十字のどくだみの花
15年におよぶ独り暮らしのなかで、さみしさのなかにも安らぐものがあったらしい。
ところで、母がこの家を去ったとき、インターネットの回線も撤去したはずと思っていたが、無線ランが有効のようで、急遽、ブログの記事をアップすることにした。
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