老人ホームに入る日
昨夜から虫歯が痛む。歯を磨いてベッドに入ったらすぐ眠ってしまった。
6時過ぎに目が覚めた。最近、朝早く目覚めることが多い。これも老人化のひとつだろうか。
買ったばかりの黒井千次の中編『高く手を振る日』を手にとった。136ページの長くない小説だ。「新潮」の2009年12月号が初出と在るから、文芸誌に掲載された一回読み切りの作品だろう。これぐらいなら1時間かと読み始めた。
案の定、7時前には読了。
作者とおぼしき主人公嶺村浩平は70半ばの一人暮らしの老人。妻に先年先立たれて、近くに娘夫婦が住むという境遇にある。
ある日、大学時代の同級生だった瀬戸重子に再会する。彼女は50代のときに夫をなくし、友人の出版社で仕事を手伝いながらこどもを育てたと浩平が噂で聞いている。長く会っていなかったが、最近死んだ友人の葬式で再会したのだ。
浩平が大学生だった時代には女子学生は数えるほどしかいなかった。妻の芳江もそのひとりで、重子とは仲がよかった。
浩平と重子は別々の結婚をしたが、学生時代に一度だけ口づけを交わしたことがある。浩平のなかに鈍い思い出となってある。
70代半ばの”老人”たちが再会して、心を少し乱しながら近づく。やがて、女性の息子の海外転勤が持ち上がり波紋が広がる。一人暮らしとなる女は東京を離れて遠くの老人ホームに入るために別れ別れになっていく物語だ。
老人である浩平の日々の暮らしの描写がリアルである。さもありなむとひとつひとつ染み通る。浩平と同じ境遇では今はむろんないが、周りにはよく似た人がいるから、実感をともなうのだ。
おそらく、この主人公たちは、バスに乗ると、シルバーシートに座って老人パスで乗り降りするあの人たちであろう。それなりに服装にも気をつかっているが、年齢の衰えは外にこぼれているあの人たち。バスが停車しないうちに立ち上がるとよろけるあの人たちだ。
今の私とは違うと言いたいあの人たちは、実はあまり遠くないところにいる。じいさんとばあさん。その先はもうない、行き止まりが見えて来ている。
そんな男女が最後に唇を重ね合う。重子が老人ホームに入ることが決まって、衝動的に浩平を訪ねてきた日のことだ。
ただそれだけの事件を、老いのゆっくりとした日々のなかで描かれた小説だった。
人物造形も設定も運びもうまいから、すっすっと読むことができた。久しぶりに読んだ黒井さんの小説だが、元気だった20年前と、あまり力は落ちていないと安心もし感心もする。だが、この境涯に心をあまり寄せない。寄せたくないというか。読むにつれて、しだいに身につまされてきた。
一人暮らし、娘からぶつぶつ言われ、友が老人ホームに入り、思い出の品々の処分に優柔する。遠からずやってくるのかもしれない出来事が、あまりに真に迫るから、感情を移入したくないと思ったのだ。
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