変な天気
「人生のモデルになってください」と7つ年下の友人から言われた。
好きな番組作りを最後まで全うしてくださいとも。先輩のような人生は羨ましい人生ですよと追い討ちをかけられるに及んで、(そんなはずはなかろう)と腹のなかの自分が呟いた。
その呟きを気にしながら、前に座った50代半ばの精力に満ち満ちた男の顔をじっと見る。自分で、人生に悔いがいっぱいありますというほど、顔も声も衰えてはいない。これから世に問うような作品をもっともっと作ってみたいという野心に溢れた表情していた。20年振りに彼と会ったが、当時の精悍な顔つきと少しも変わっていない。
君が居る今の場所で、それなりに番組作りが出来るならそれはそれでいいじゃないか。今の62歳の私などは、せいぜい年に2,3本しか番組を作る機会がないのだよ。それがそんなに称揚されるようなディレクター人生だとは思わないけれど。と、私は彼に冷水を浴びせるようなセリフを吐いてみる。皮肉でも嫌味でもなく本当に自分の人生に悔いはないなんてことはとてもいえないほど悔いの多い人生なのだから。
「でもですね。」と彼はすぐに反論。「制作の本数が少なくても全国に放送できるだけいいじゃないですか。放送後の反響だってあるでしょうし、職場の仲間うちでも番組の議論ができるでしょう。ぼくの場合、BSの深夜帯の誰も見ていないような場での放送です。反響なんてほとんどありません。何を作ろうとも僕の周囲は関心をもってくれません。やりたいならやってもいいけど、日常業務のほうに支障がないようにやってねという反応しかありません。ネグレクト--無視されるということはきついですよ」と、おそらく憤懣がたまっていたのだろう、一気に彼はしゃべった。
彼の言い分はなんとなく分かる。無反応でも作ればいいじゃないかとはならないだろう。他人(ひと)がどう見ようとも、わが道を行けばいい。とはならないとも思う。表現したことは他者に伝えて意味をもつ。他者から悪評も含めて評価されることが大切なのだ。
でも、彼が置かれた今の場所では、作品を作ろうと作るまいと誰も関心をもたないという「不毛の地」で仕事をしているのだ。 つまり、私らは番組を作って終りという閉じた回路ではなく、作り上げた番組を媒介にして、「他者」とコミニュケーションを交わす。そこにやりがいというか喜びを感じて仕事をしているのだ。それがあるから作る喜びがあり、伝わる快楽があるのだ。彼はその喜びを味わう場所を奪われている。
彼と渋谷駅前のフルーツパーラー西村で話しをしていたときは土砂降りだったのだが、夕方になって空は美しい夕焼けとなった。変な天気だけど、終りよければすべて良しといえるのじゃないだろうか。
彼も今55歳の岐路に立っている。人生の前半は困難なこと不本意なことが多かったかもしれないが、これからの10年で一踏ん張りすれば実りがあるかもしれない。
と、他者には勇気付けることは出来ても、自分を奮い立たせることは難しいものだ。
人生の天気。変なものだ。
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