ニュースカメラマンの傷
1965年から10年にわたってベトナムに滞在して戦場を撮りつづけた男、平敷安常。彼の足跡を追ってベトナム戦争とは何であったかを追求するドキュメンタリーを今作成している。
といっても取材は始ったばかりで、先月、取材班は平敷が住むニューヨークへ出かけて彼と接触してきたばかり。これから夏にかけて、日本、ベトナム、アメリカの本格取材が始る。
平敷は1938年那覇で生まれた。私より10歳上の72歳。小柄だが頑健な体は、見るからに歴戦の勇士を思わせる。だが、眉が太くつぶらな目はいかにも沖縄出身らしく、顔だけみるとやさしいおじいさんだ。戦前に生まれたが、両親は内地に生活の基盤をもっていたので、あの沖縄戦の悲惨には遭遇していない。だが親戚縁者にはおおぜいの犠牲者がいる。
昨年、彼が記したノンフィクション「キャパになれなかったカメラマンたち」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したとき、来日した平敷と私は一度だけ会った。穏やかな人柄に好感をもった。
その彼が、ベトナム戦争の従軍カメラマンを志願したのは、20歳のときだ。大阪毎日放送のカメラマンとしてスタートしてまもなくのことであった。民放の社員だった身分を捨ててフリーランスの戦場カメラマンを志願した。争いを好まない気配りの優しい平敷がなぜ、戦場を選ぶことになったのか。ここが番組の大きな主題のひとつとなる。
ベトナム戦争が終わったあと、平敷はカンボジアの戦争、バングラディシュの戦争、ベイルートの戦争、イスラエルとアラブの戦争、イランの革命戦争、湾岸戦争と、現代史の戦跡をほとんど従軍して本ものの戦闘を撮影することになる。この体験は当然にも彼の心に爪あとを残すことになった。PTSD、彼が戦争症候群と呼ぶ心の傷だ。
今でも緑美しい道を車で走行していて突然不安になることがある。突然行く手に「待ち伏せ」が隠れているのではと緊張する、公園の柵の内側に入ると地雷が仕掛けてあるのではと不安になる、爆竹の音を聞くとパニックに陥る、涙もろくなり、夜悪い夢をみてうなされる、など。これらの“症状”はベトナム戦争症候群と呼ばれる病である。
これにかかったベトナム帰りの兵士が一番安息した思いにかられた言葉は3つ。
「ようこそお帰り」「ありがとう」「あなたが無事生きて帰れて神様に感謝」。
この言葉がどれほど傷を癒すのかということを、平敷は饒舌ではない語りで一生懸命語ったということを、私は取材班から聞いた。
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