いつからここにいるのだろう
書きたいことがなくなり、でも何か表したいと願い、漫然と自動書記として手を動かし、パソコンのキイを敲いている。
今朝、読んだ田中冬二の詩について書こうか、昨夜の打ち合わせで出たサブカルチャービジネスについてまとめようか、机に座りパソコンの前にあっても書く事の腰が定まらない。
だんだんブログの記事が書けなくなってきたのは、母の死の前後からだ。母がだんだん死んでいくとき、弟の体の具合もよくなく、加えて私自身の健康も損なわれいくということがあってからだ。煩瑣なことがどっと押し寄せて来た。実行しなくても、どう遂行していくのか予定を立たねばならない羽目におちいった。家のことをどうする、埋葬のことをどうする。その手続きのことを考えていると、いっそこの体が飛散してしまえと呪詛したくなった。そういう気分に襲われれば、何かを書きたいという意欲もいよいよ減退するのであった。
藤原定家が明け方に見た横雲。田中冬二が歩いた青い夜道。中野重治が「歌のわかれ」で語った”歌”そのものであろうか。その歌を歌いたいと願いつつ歌えなくなっている私。62歳だ。還暦も越え、老年の時代に移行しつつ私が、まだ歌に恋々としているなどとは。20年前には予想もしなかった。
ヘルマン・ヘッセを読みたい、コナン・ドイルとスティーブン・キングを読みたい。でも、今夜書店で探したがなかった。
見たい映画はない。スコセッシもアルトマンも黒澤もそれほど見たいとは思わない。
昨夜、佐々木昭一郎の「さすらい」を見た。テレビドラマの枠をはみ出したテレビドラマだ。カメラは葛城哲郎だった。非物語の物語はたいして関心がなかったが、葛城の映像には惹かれた。ずっと長い間、彼の映像はタルコフスキーのような超絶なものと思い込んでいたが、「さすらい」を見て、ヘタウマの滲むような表象だという印象をもった。ワンカットが次のワンカットまで浸出してくる。ぐざぐざとかしぐような画。こんな凄まじい才能をかつてテレビは持っていたのに今はほとんどない。その才能を周辺のものしか認識しておらず、視聴する人たちはほとんど記憶していない。テレビは才能の垂れ流しの装置でもある。
そして、今夜はタルコフスキーの「ストーカー」を購入して見ることにした。紀伊国屋で20%割引で売っていたので買った。
10時から見始めて40分。気がついたら私は眠っていた。タルコフスキーは能のように入眠状態に陥りやすいことは知っているが、それでも今夜は持続して見る気にならず、DVD再生を止めた。思わせぶりな「ストーカー」の気取った映像より、昨夜の葛城のブリキ細工のような画のほうがよほど心に残る。
シーバスリーガルをコップに少しいれて、ちびちびなめながら、この記事を打ち始めている。悪酔いしそうだ。
明日から京都へ行く。2日間の講義と1日の研究会。新緑の雨の京都はいいにきまっているが心震えない。
終えて、敦賀に帰り、母の家にもどることにしている。あと、いつまで在るか分からない実家の、その姿を思えば、酒の量も少し増える。
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