美空ひばりの家
これまでに、私は美空ひばりの番組を2本作ったことがある。
1本は亡くなった直後の昭和64年。
「ひばりの時代~廃墟に流れた“悲しき口笛”~」
もう一つは一昨年である。
「最期のひばり~付き人の日記が明かす3ヶ月~」
それぞれスペシャル番組としては高率の視聴率だったので、印象深い。
* *
その朝早く「美空ひばりがやっぱり死んだよ」とTプロデューサーから
電話が入った。薄闇の中で、私はぼんやりと聞いていたが、受話器をおいてから
ことの重大さに気付いた。
その半月前に私はひばりが危篤であるらしいという情報を入手していた。
密かに、ひばりと共に生きた庶民の戦後史を企画し、取材を始めていた。だが、
その後聞こえてくる噂は深刻な事態とは程遠く、ひょっとすると間違えたかと取材を
一時中断していた。そこへ飛び込んできた訃報だ。私は不意を撃たれた。
――ひばりこと加藤和枝の生家は、横浜市磯子区の通称屋根なし横丁にある。
このあたりは戦前から勤め人の多い地域だった。
そういう世帯を相手に、細い路地をはさんで両側に二十軒たらずの店が商っていた。
ひばりが死んだ頃には、タバコ屋をのぞいてすべて店を閉じていた。周りは洒落た
住宅街に変貌していたが、ひばりの生家は旧商店街の一番奥にそのままあった。
ひばりの母方の親戚が住んでいた。その家のなくなった主人は、
ひばりがデビューする前の素人楽団で司会を務めた人物だった。生前、家の立替を
勧められたとき、ひばりはここで生まれたのだからその由緒を消すわけにはいかないと、拒んだという。その家を撮影した。
間口は狭く2間ほどしかない。中へ入るとセメントのタタキが奥にむかって
沈みながら伸びている。水はけを気にする魚屋の家の作りだ。廊下には片側に
2段の押入れがある。3歳のひばりが近所の迷惑にならないようこの中へ
入って蓄音機を聞いたという。この家には伝説が至る所にあった。
ひばりが死んだとき、生い立ち、栄光、家庭の複雑さ、女性としての不幸など
あらゆることを、マスコミは書きたてた。だが、情報が増えれば増えるほど
美空ひばりの正体は見えにくくなったのではないだろうか。
そんなとき、私は横浜の屋根なし横丁の、あの家を思った。
ある夕暮れの情景が浮かんでくる。…
魚屋の店頭で、母が威勢よく声をかけながら愛嬌をふりまく。奥では
ちょっと東海林太郎似の父が浪花節をうなりながら魚をさばいている。
かたわらには、おそろいの浴衣を着せられてはしゃぐ、ひばりと一つ違いの妹。
幼い弟たちが走り回っている。
まもなく店仕舞いをして、加藤家の遅い夕食が始まる。磯子の丘の上には、家並の灯が
ともっている。
その後、この家族を襲う数奇で過酷な運命を誰も予想できない、しない。
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