生の重荷
清元の「隅田川」を文章で読んで、よく出来た詩だと感心していると、これは元々能の演目のひとつだったことに気がついた。
これまで能についてきちんと向き合ったこともなく、白洲正子のエピソード程度しか知らない。能は難しそうな古文で書かれた面倒くさいテキストだと敬遠してきた。たまたま新刊の漫画「まんが能百番」というのが手元にあったので手に取って読む。能の人気演目100のあらすじがまんがで描かれてある。これなら読めると昨夜寝床にもちこんだ。
「道成寺」や「安宅」はなんとなく話を知っていたが、他ははじめて知ることばかり。その筋の面白さもさりながらタイトルの美しい言葉に少し驚く。「通小町(かよいこまち)」「七騎落(しちきおち)」「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」「菊慈童(きくじどう)」。うまいものだ。そのなかに「恋重荷(こいのおもに)」というのがある。
御所の庭仕事をする身分のいやしい老人が、天皇の第3夫人に恋をするという話。身分違いの恋だが、まわりがはやし立てた。錦で覆われたある包みがあり、それを持ち上げて庭を幾度も廻れば、それを聞きつけて夫人が現われるだろうと老人をそそのかした。その気になって老人は錦の荷物を持ち上げようとするが、重くて持ち上がらない。中に仕掛けがあったのだ。老人は必死で試みる。重荷はあがらない。やがて計られたことを知って老人は自死する。ここまでの話は今でもいじめにありそうな話。
やがて亡くなった老人の霊は、たたり神となって夫人に憑く。怨みを述べ、夫人を責め、もし私を弔ってくれるなら怨みを忘れるぞといって消える・・・。
祟りっぱなしでなく救済があるところがいかにも古典。おそらく夢幻能のお約束なのだろう。だが、十分物語りとして堪能できる。この話のキモは、年寄りがすさまじい恋をしたのが重荷となり、その重荷のために死んだということ。粗筋を読むうち、この実物の能を見たくなる。こういう物語なら現代人の感覚でも十分ついていける気がする。第一、恋重荷という題のつけかた。まるで奥村チヨではないか。しかも作者はあの世阿弥。
ネットでこの能の言葉を探した。老人が恋をする心境の一節があった。
過ぎ去りし 時は戻らず
すれ違ひし こころ戻らず
きざまれし おこなひ消えず
投げつけし 言の葉枯れず
ふりしぼる ちから及ばず
課せられし 重荷になへず
かへり来ぬ むかしの日々の
かがやきは いまだ 消えざり
「かへり来ぬ むかしの日々のかがやきは いまだ 消えざり」とはなんと響く言葉か。
ところでこの物語。白河院の菊の手入れをする山科荘司という年寄りが若く美しい貴婦人女御に恋をするという設定。
仕事をしていて老人というのは、定年間際の分際。ちょうど私のような年頃のものを指すのではと思い当たる。そうか、この年になって恋をするというのは、傍目から見れば滑稽にしかみえないのか。そういう年代に足を踏み入れたということを思い知る。
いまや、恋どころか生きるということすらなかなかの重荷と感じるのだから当然にはちがいないのだが――。
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