病院の待合室で
検診のために病院へ行く。予約で待ち合いに入るが、いつもより患者の数が多い。どうやら外来担当医のチーフに所用があって、9時開始が遅れているらしい。私のかかる第3外科はほとんど老人で若者は一人か二人しかいない。みな疲れた顔で黙して座っている。陰鬱な風景。
第3外科の反対側には小児科があって、こちらは賑やかだ。1歳前後の子供をかかえた母親たちが数組いる。愛らしい子供たちが注射の痛みで泣きじゃくっていたり、母親に抱かれて眠っていたりしている。その泣き声が邪魔にならないばかりか、可愛い叫びについ相好が崩れる。泣きじゃくる子を抱き上げたくなる。
それにしても、世の中にはなんと多くの人が病んでいるのだろうかと、病院へ来るたびに思う。(自分もそのひとりのくせに)
人間には2万5千ほどの遺伝子があって、実際に働いているのはその一部だという。その働きがじょじょに解明されつつあるのだが、その仕組みを調べると遺伝子すべてが働いているわけでないということが分かってきた。普段働いていない遺伝子の存在が大切なこともしだいに分かってきた。もしもそういう眠っている存在がなかったら、稼働する遺伝子だけでは現在のような働きにはならないと見られている。眠った遺伝子。この説話は意味深い。
ミツバチの世界でもせっせと働く兵隊蜂は3割で、残りの7割は役に立っていない。では、この役立たずがなくて働き者だけでミツバチ社会が成立するかというとそうはならない。働かないで、働いているようなフリをしている存在が7割いてこそ、社会はうまくいく。病人や幼児は社会のなかでは役立たずのようにみえるが、この存在が「働き蜂」の底支えをしている。そんなふうに考えられないかと、待合室でふと思ったりして。
病院からの帰途、出版されたばかりの『精神医学から臨床哲学へ』という本を渋谷のパルコリブロで偶然手にした。日本の精神医学の泰斗、木村敏の自伝である。フロイトやユング、ラカンという名前が頻出するものと思っていたら、ハイデガー、フッサール、西田幾多郎ら哲学者の名前がぽんぽん出て来る。哲学というものを思弁でなく実際の精神を病んだ人のなかから、人間存在を考えぬこうとしてきた木村の姿勢に共感し、読み進むにつれて感動が深まる。まだ読み切っていないが、この本は生きるということに迷う私に大きな示唆を与えてくれそうな気がしてならない。
こんな言葉があった。
《精神分裂病という病気を表面的な妄想や幻覚、あるいは興奮や人格荒廃といった症状面からではなく、その背後にある自己存在の脆さ、自己を自己として成立させる経験の連続性の喪失といった基本構造から考えて行こうとする私自身の姿勢》
類的存在から私という個別が生成されていくとき、自己を自己として成立させる経験の連続性という”自然な自明性の喪失”がともなえば、大きな障害となって顕われてくる。
―-人間存在の秘密が垣間見えている気がした。
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