私のバブル時代
文化社会学の入門書を読みふけっていると、人間は言葉で生きていると”錯覚”してしまう。パンのみに生くるにあらずということか。さりとて言葉が主食かよと突っ込みもいれたくなる。
どうも80年代あたりで大きな文化変動が起きたらしい。同時代として生きていた私にはずっと地続きのように思えたのだが、少なくとも学問の世界では「文化論的転回」や「言語論的転回」というものがぼこぼこ起きていた、ようだ。
自分自身の経験でいえば、長崎時代から第2次の東京時代にさしかかる頃、実際のロケ取材を遂行するディレクターとしてもっとも動き回っていた時代だ。
冷戦の末期であり、昭和の終わりだった。忘れてはならないのは、世はバブルだった。とにかく深夜のタクシーが掴まらない。帰宅不能になるとわかっていても夜遅くまで酒を飲み歩いていた。
長崎から東京へ戻って来て嬉しかったのは、神保町を遊弋することだった。成増に住んでいたから、週末はよく古書街を素見〔ひやか〕すことになった。まだ映像はVHSのビデオの時代でそれほど種類も多くなく、DVDは誕生しておらず、もっぱら古本のほうばかり向いていた。土曜日は朝から神田へ行き、夕方までぶらぶらして、花田清輝や中野重治の廉価な本を探し、結城昌治や有馬頼義のミステリーを買い求めていた。長崎帰りでキリシタン文化、南蛮学への関心の余熱が続いていて、外山卯三郎、松田穀一や海老沢有道の本も熱心に購入していた。子育てにはまったく参加していなかった(そのことを今頃になって家族から咎められる)。
そんな頃に文化論的転回があったはずだが、私はまったく認識しておらず、古くさい学問体系のなかで、ごそごそ這いずり回っていた。好きな劇画や映画が学問の対象になるとは夢にも思わず、岸田秀や文化人類学の本に埋没していた。世の中の景気の良さは、相対的に私をして貧乏な階層に置かしめ、スキーだ海外だとはしゃぐ人たちを怨望していた。
私のバブリーな時代は遅れて来た。いわゆるバブルが弾けてからのことで、1991年頃から始まった。海外取材がやたらと増えたのだ。コロンブス500年の国際共同制作をやらないかと声がかかり、アメリカに行ったりジュネーブに行ったりするようになった。BBCと共同で「ガイガースィート」という核の番組も企画した。ちょうどその頃、広島に転勤が決まった。
赴任した広島では、自席にとどまることは少なく、中国地方のあちこちを動いた。山陰は交通が不便で鉄道とバスを乗り継いでえっちらおっちら駆け回った。私のなかの血圧が徐々に高まり、血管がいつ破れてもおかしくない状態まで悪化していたということが、後になって知る。
岡山県と鳥取県の境にある温泉町で、「たまおき一座がやって来る」という公開番組を収録したときのことが忘れられない。ひなびた温泉町の中学校の体育館で演歌歌手たちといっしょに町おこしをやった。床にゴザを敷いて座り込んだお年寄りたちの嬉しそうな笑顔が、目裏に焼き付いている。
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