映画を撮りたかった〜学徒兵竹内浩三〜
詩人・竹内浩三(1921〜1945)を知っているだろうか------
みんなして酒をのんだ
ぼくたちはすぐいくさに行くので
今度あうのはいつのことか
雨の中へ一人ずつ消えていく仲間
おい、もう一度、顔みせてくれ
雨の中でわらっていた
そして、みんなみえなくなった
1942年秋、21歳の浩三が、入隊を目前に書いた詩だ。自分の心を素直な言葉で語った浩三。今の若者達と何ら変わらない青年だった。しかし浩三は戦争に行き、23歳の若さで死んだのだ。
そしてイラクで戦争が起こり、戦火はまだ続く今こそ、浩三の事を思い出さずにいられない。
竹内浩三は日本大学映画科で学んでいた。将来の夢は映画監督になって、好きな映画を撮りつづけることだった。
実は、浩三は生涯にたった一本映画を監督している。映画科の卒業制作「雨にもまけず」である。この浩三が残した唯一の映画は、未だ発見されておらず、シナリオが残るのみである。
1942年、日大映画科在学中に、竹内浩三は学徒兵として召集される。
入営が決まってから同郷の友と共に作った同人誌「伊勢文学」に、こんな一節を浩三は残している。
「生まれてきたから、死ぬまで生きてやるのだ/ただそれだけだ」
姉へあてた手紙、教科書の見返しなど手当たり次第に、浩三はたくさんの言葉を書き残した。入営後、兵舎で隠れて書いた日記には、こんな一文がある。
「銀座を懐かしく思う。池袋のセルパントという喫茶店を、思う。しかし、行ってみたまえ。東京には、銀座があるであろうか。セルパントの蓄音機が、バイオリンコンチェルトを、今、歌っているであろうか」。
この日記には、ほのかに心を寄せた人へのあこがれや映画のことがびっしりと書かれてある。
軍の検閲の目を逃れるため本をくり抜いた中に日記を忍ばせて、姉に送った。だから残った。これは現在伊勢の本居宣長記念館に保管されている。
浩三が消息を絶ったのは、1945年4月、激戦地として知られるフィリピンのバギオだ。
浩三の戦死が伝えられたのは終戦の2年後。しかし遺骨はなく、故郷に戻ってきたのは空っぽの白木の箱だけだった。
映画を撮りたかったのに戦争に散った浩三の無念。
伊勢にある浩三の墓。墓標には、浩三のこんな詩が刻まれている。
生きることはたのしいね
ほんとに私は生きている
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