カメラマンの態度
ベトナム戦争に従軍した記録『キャパになれなかったカメラマン』で昨年の大宅賞を受賞した平敷安常のことは、会社の大先輩の飯田さんから聞いた。飯田さんは報道カメラマンで、あのベトナム戦争のとき大活躍した、私たちのなかでは伝説になっている人だ。馴染みの居酒屋「たつみ」でよく顔を合わせたことから部署は違っていたが私は飯田さんと“ともだち”になった。
飯田さんが凄い経歴をもった人であることは知っているのだが、どんな活躍をしたのか知らなかった。でも、今度平敷さんから教えていただいたエピソードから、飯田先輩の活躍ぶりを初めて知った。
1965年、NHKはサイゴンに支局を開設する。
平敷が飯田を見かけるようになるのは70年代に入ってからである。飯田はベトナムには駐在しておらず、東京からの特派員としてときどきサイゴンへ“出撃”していた。飯田と相棒の記者の印象を平敷は「親しみやすく、明るい人柄、そして勇敢、NHKらしからぬ雰囲気は、すぐに現場の仲間たちとも仲よくなった。修羅場に強い優れたチームだという印象があった。」
リタイアした現在の飯田さんは白髪の細身の紳士だが、当時は日焼けして色が黒く地元のベトナム人と余り違わない。平敷さんは、彼のことを「黒田さん」と記憶していたぐらいだ。
飯田カメラマンは1933年生まれで関西の出身。相棒の田中記者は彼のことを、「ニュース感覚、ここぞという時の判断力も優れている。勝負師だ。それに人間的にもやさしく義理人情の男だ。私は何度助けられたことか。独特の河内弁でまくし立てると大抵のものは納得させられる。妙な特技だ。」と記している。飯田さんの河内弁は独特の雰囲気を醸し出す。
1971年に起きたラオス侵攻作戦のときの飯田の動きを平敷は思い出す。南ベトナム政府軍はラオス国境を越えて侵攻作戦を開始した。約一か月、飯田カメラマンは記者とともにホーチミンルート入りすることを密かにねらっていた。やがて物資輸送用の米軍のヘリコプターに乗り込むことができた。ヘリの中ではベトナム人になりすました。低空飛行でジャングルを越えラオス領内へと入り、ヘリが荷物をおろしている間にヘリから飛び降りて、飯田カメラマンは夢中で伝説のホ・チー・ミンルートを短い時間で撮影する。当時の現地の情勢を詳しく知るわけではないが、この仕事はかなり危険かつ困難なことと思われる。たいていの取材者なら二の足を踏むような仕事だ。そこをこの二人のNHKチームは果敢に挑んでいったのだ。
サイゴン陥落のときも飯田カメラマンは大活躍する。平敷さんは次のような証言をする。
《陥落直後の1975年5月1日、飯田カメラマンはシクロ(人力車)に乗り、四方八方に移動し、陥落後のサイゴンの模様を撮しまくる。現代史に大きく残る歴史的な瞬間を在庫の16ミリフイルムが無くなるまで、森紀元カメラマンと共に廻し続け、記録し続けるのである。》飯田さんはサイゴン陥落と、新しい国の誕生という歴史的瞬間を記録したのだ。
普段、散髪屋で会う飯田さんはとてもこんな経歴の持ち主には見えない。かつて黒田さんといわれたというが、色白で銀髪、細身の風貌は上品な大学教授といったところ。が、一言口を開けば、あけすけな河内弁でまくしたてる。修羅場での飯田カメラマンが目の前に現れる。
能ある鷹の謂いではないが、飯田さんのような凄い人材が市井にはたくさん埋もれている。おそらく飯田さん自身はけっして自分のことを語らないだろう。だからこそ、評伝というジャンルをもっと有効なものにしたらいいのではないだろうか。
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