被害者的ラジカル
大江健三郎という作家はおそろしく傷つきやすい。そして過剰な被害者意識こそ創作の駆動力になっているのではないかと私は推量する。
近作「水死」でも、父のことをめぐっての彼の被害者性がでてくる。以前、父のことを書きたいので父が残した資料を詰めたトランクを貸して欲しいと母に頼んだことがある。ところが、母からなかなか返事が来なかった。業を煮やして大江は父をモデルとして“フィクション”を著したところ、その作品は母の考えと合わずに3年ほど交渉を絶やすことになったと、「水死」のなかで大江は語っている。そのフィクションとは「みずから我が涙をぬぐいたまう日」である。この作品で父のことを貶めたことに対して母が怒ったのだというのだが、知るかぎりそんな「事実」は見当たらない。
おそらく実際に大江と母の没交渉はなかったのだが、大江のなかでは母の「みずから我が涙をぬぐいたまう日」に対する否定的なものがあったと、(勝手に)思い込んでいる。
「静かな生活」で、大江がモデルとなっている作家が“信仰をもたない者の祈り」という講演をしたことからカルトな信者から嫌がらせを受けるようになってピンチに陥るという設定がある。この講演は実際に東京女子大で行われ評判をとったものである。このとき、講演の後にそういう事件があったということはないはずだ。大江が信仰を持たないということを公言することによって、熱狂的な信者からストーカー行為を受けたという「事実」はなかったはずだ。ところが、大江はそういう攻撃を受けてしまうと思い込む。被害者意識である。
この過剰な被害者意識は、大江文学にとってきわめて重要である。これこそ、大江のなかでの危機への歯止めになっていると推測される。
河合隼雄との対話で、大江はこう語っている。「クライエントと心理療法家として関係をもっているうちに、自分が大きい危機に陥ってしまうということは本当に恐ろしいことだろうということです。小説家としては、小説を書く上で危機に向かいながら、本当にそれに陥ることを逃れるための安全操作みたいなことも自分はやっているんじゃないか、だからどうも小説がいいかげんに終わってしまうところがあるんじゃないかという気持ちをもってましてね。」
先に書いた危機というのは、小説を書くことで陥る大きな危機である。
実際には、大江は小説をいいかげんに終わらせることなく勇敢に危機へ入り込んでいく。ラジカルなといいたいほど果敢に飛び込んでいく。そうして小説を書き上げる。そのときの大江は狂気だ。
そうして書き上げておきながら、その後から、大江はぐちゅぐちゅと思い悩む。そこが大江らしい。思い切って書いたことに、あるときは否定的なあるときは悪意に満ちたまなざしが、自分に差し込んでいると、大江は事後的に被害者意識をもつ。
この意識はラジカルな作品を書き上げることに対する代償にあたる。
小説を書いているときのラジカルと、書き上げたあとの弱弱しい被害者意識との大きな落差に読者は惑わされてしまう。大江健三郎の魅力のひとつだ。
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