違和感
「私はヒロシマの心とか原爆の実相とかいった表現はしません」中国新聞の原爆記事を長く書いて来た西本記者はそう語った。
広島で生まれ育った西本さんは幼い頃から周りに被爆者がいた。親戚の人たちも、原爆の日が来ても声高には被災した身内のことはあまり語らなかった。たまに口を開いても「あの原爆が投下されたことは仕方なかったが」とぼそりというだけだった。あれで戦争が終わったのだ、爆死した人たちはまさに犠牲として死んでいったと思うより、心のやり場がなかったのだと、当時を振り返って、その繰り言を語った父母や伯父叔母を西本さんは思い出す。
他所からやってきて旗を立てた人たちが、ヒロシマの心とか原爆の実相とか言葉を掲げて、原水禁の運動を始めたとき、西本さんは自分の周りにいる被爆者たちとズレが在る事を感じた。「違和感があります」と西本さんは言う。そのズレを見つめて、西本さんは中国新聞で原爆に関する記事を書き続けた。「核兵器廃絶は悲願」と言う言葉が外部から使われても、西本さんの腑には落ちなかった。身内を失った親戚血族の人たちの喪失感を埋めてくれるような行為もなく、慰めてくれる言葉もなかった。この違和感が西本さんの記事の根っこにあったこと。私たちのように東京からの視点で報道してきた者にとってきわめて重大だと思う。
平和公園の慰霊碑に刻まれた文言「安らかに眠ってください 過ちはけっして繰り返しませぬから」。数年前に問題になったことがあった。なぜ、被害者であるヒロシマのひとたちが過ちとして認めなくてはならないのかという抗議だった。この言葉は原爆を投下したアメリカこそ言うべきであって、広島の人が言うべきものではないのではと、これを作った広島文理大の教授の思想を遡って批判したのだ。
この正論に違和感をもった。原爆資料館に展示された被害を見学し、犠牲者の肖像を見た後で、この原爆の慰霊碑の文言と出会って、誰の過ちなのかということが前景化するだろうか。むしろ、被害、加害を越えて、人類としての大きな悔いというか過ちを行ってしまった、というものが顕われるのではないだろうか。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング