昭和37年、懐かしい年からの手紙
中学校の同窓会の案内が届いた。37年卒業生の会で、今年の8月にふるさとで行われるという内容だ。発起人の名前のなかに同級生のものがあるから、たしかに私は37年春に卒業したのだろう。てっきり38年、豪雪の年だと思い込んでいた。あの頃は毎年のようにたくさん雪が降ったから勘違いしていたのだ。この年の春に高校へ入学して、6月に北陸トンネルが開通した。日本で一番長い隋道が近在に出来たということが嬉しかった。
37年の2月。卒業がまもなくに迫ったある日、担任がいつになく神妙にホームルームを始めた。進学、就職の進路がだいたい決まったので、皆に報告するという。50人ほどの級友の行き先が黒板に向かって左側、下手側から順に告げられた。普通高校に進学するのは10人に満たない。工業高校へは5、6人、よその町の私立高校や定時制高校へ通うというのが3人ほど。残りの人は就職だった。県外の紡績工場や鉄工場に勤める人、家業を手伝う人だった。高校全入の今からみると、義務教育を終えて仕事に就く人の数が信じられないほど多かったのだ。
同窓会役員名簿を見ると、女子がほとんど括弧つきで旧姓と記してある。みんなお嫁に行き、いいお母さんになったのだと心がほころぶ。役員はどうやら各クラスから一人ずつ選ばれてあるらしい。当時は9組まであった。この数も隔世の感がする。さて、私は3年生のとき何組だったっけ。担任のバンバコの顔は思い浮かべられるが、クラスが思い出せない。5組だったか、8組だったか。
テレビに夢中だった。「シャボン玉ホリデー」「夢で逢いましょう」がお気に入りだったが、それ以外の「アベック歌合戦 」のようなオチャラケが大好きだった。思春期のとば口に立っていたから石原裕次郎の“恋”の映画に興味津々、でも学校からは映画は禁止されていた。ラジオで覚えた「紅いハンカチ」を鼻唄で歌った。クラスメートの増田くんが家に裕次郎のドーナツ盤があるから貸してあげようと言われて、冬の冷たい雨のなかを取りに行ったことを思い出す。曲名は「淡雪のワルツ」と「残雪」だったのは季節のせいだったろうか。月影に残雪冴えて 山は静かに眠る、なんて歌詞をどんなつもりで聴いたか思い出せない。が、歌詞はしっかり身についている。
「ホイホイミュージック」のなかで、飯田久彦が歌った「ルイジアナ・ママ」が気に入った。が、歌詞がいまひとつ理解できない。
♪あの子はルイジアナ・ママ やって来たのはニューオリンズ
髪は金色、目は青く、本ものだよ ○○×× △△○○
最後が聞き取れなかった。当時からヒアリングは苦手だった。今調べたら、ディキシークィーンとなっていた。「本ものだよ」の意味が分からなかった。天然以外に贋物の髪や目の色があるなんて想像は当時できない。
この頃、クロサワは絶好調で、「椿三十郎」を放っているが、私の視野にはまったく入ってこない。大相撲で大鵬だらけのなかで、五島出身の佐田ノ山が頑張っているのがなぜか嬉しかった。
まだ、親の庇護のもとにあったのだ。
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