撮影所システムがあった時代
井上梅次映画監督が死去したとテレビが伝えている。日活全盛の頃の監督だ。「鷲と鷹」などを作り、「嵐を呼ぶ男)で石原裕次郎を一躍スタアに押し上げた功績をもつ人物だ。日本映画が衰退した後、香港で作っているという話を聞いたことがあったが、まだ存命とは思わなかった。映画会社がスタジオ(映画人はステージと呼ぶ)をもっていて、撮影所という場が映画製作に大きな力をもっていた時代だ。監督もスタッフも映画会社の専属で、その人事のなかで映画が作られていた。ロケ撮影は天候に左右されるから、出来るだけ無駄が出ないように撮影に入るなんてことは、撮影所システム時代には当たり前のことだった。今は、そういう撮影所所属でないフリーランスの監督たちが参加してくると、天候などにとらわれないブルーバックのはめ込み映像ばかりになっていると、OBの映画人が嘆いていた。
映画作りにはいろいろなシステムがある。スタアシステム、ディレクターシステム、プロデューサーシステム、撮影所システムなどである。映画スタア中心であったり、監督が中心であったり(小津や山本嘉次郎ら)、城戸四郎や藤本真澄のような映画会社の幹部であったりしたのだ。プロデューサーシステムの代表はハリウッドのザナックだろう。ジョン・フォードの作品をいくつも手がけている。有名な「トラ・トラ・トラ」も彼が仕切っていたと思うが。
そういえば。松竹の大船撮影所が閉鎖となったときに特番を作った。今から5、6年前になるか。最後の作品は、山田洋次監督の「学校Ⅲ」だった。撮影所で働く守衛さんや大道具さん、デザイナーのそれぞれの思いを語ってもらった。
テレビ屋の私には、映画の衰退を対岸の火事のように見ていたが、昨今の動きを見ていると、テレビも同じ運命を辿っていると思えてならない。
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