リアルのようなフィクションのような
最近、ブログの分が悪い。昨夜、いっしょだった同僚から、仕事でコメントを書くのだってしんどいのに、よく毎日800字も1000字も書けるなあと冷やかされた。言外にそんなに自己顕示したいのかいと皮肉が入っていると感じた。井上ひさしが、「エッセーとは自慢話だ」と喝破していることを思い出した。
4年もブログを書いていると弊害が出て来る。ここで書いたことをすべて「事実」として受け取って、私に言ってくるのでなく、家人に問い合わせてくる人がいる。特に、大磯の自宅周辺や職場の知人などから声がかかるのがいちばん厄介だ。プライベート(私秘性)なことを書いているときはかなり話を作ってずらして表現しているので、必ずしも文字通りでないことが多いのだ。例えば、初恋の思い出といった場合、かなり話を複合化させている。つまり、自分の体験2割、残りは他者(ひと)から聞いた話8割といった按配だ。書かれてあることがすべて本当とはいえない。なのに、書いてあるからそうだと理解して、わざわざ助言を、私でなく家人に呉れたりすると、話はややこしくなる。家人はなんのことか分からず、しかも作られた話まで及ぶと当惑する。
私がブログであれこれ書いていることを家人は黙認しているが、おそらく内容を読めばやめてほしいと思うこともあると思う。そこが、書き手の我がままというか暴走というか、つい表現してストーリーや”落ち”やカタチを作ってみたいのだ。だから、話半分のものが多いのだが、これをまともにリアクションされると、書いている私もとまどうし、いわんや家人はもっと面食らう。
最近、ブログなどに代わってツイッターという短い140字限定のネット日記が流行っていると聞く。これぐらいの分量のほうが対話するのに便利で簡明だということらしい。これが面白いからと1年ほど前に薦められたが、私としてはブログのようなある一定の分量がないとつまらないと思ってしまう。お話を作る楽しみが少なくなるからだ。私はネットでのコミュニケーションを重視していない。書いたものがカタチになるほうが面白いのだ。
先日の大江インタビューのなかで、大江文学は私小説かどうかということが話題になった。大江さんとおぼしき作家長江古義人、奥様とおぼしき千樫、光さんらしいアカリ、伊丹十三がモデルの吾浪、といった人物が登場してくると、書かれてある出来事は、大江さんの身の回りで起きたこと身辺雑記かのようにみえてくる。だから、そう受け取る読者が多い。そこを問うと、大江さんは旧来の私小説のようなリアリズムではないと言い切った。エピソードの核には事実が含まれてはいるが、そこをそのまま書いているわけではない。小説家としての企みをもって表現しているのだと言っていた。この私小説論は、近作『水死』の本文のなかでも取り扱われている。
ま、ここのブログと大江文学を同じ土俵にあげるのも相当僭越だが、話としては似ているので書いた。
ところで、亡くなる直前に、母が自分の短歌についてこんなことを話していた。夜中にひとりで眠れないでいると、亡夫が出て来て背中をさすってくれるというような歌を詠むと、周りから「あんた、旦那さんのことをそんなに思っていたの」と呆れられることがあると、母は苦笑していた。あそこで詠むことは、必ずしもあったことばかりではないということは、表現ということの根幹なんやけど、普通の人には分かってもらえんしなあと、呟いたことが忘れられない。
ブログを毎日書くというのは、むろん日記でもあるが、お話のエスキースでもある。いつか、もっと長いものを書きたいと思ったときのための表現のスケッチのような面もあるのだ。
くれぐれも、大磯の地元のみなさんも、そんなつもりで暖かく放置しておいてください、ね。
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