無縁の死
昨夜のNスペは「無縁死」が主題であった。身元不明のまま誰にも引き取られない遺体が年間3万2千もある。そのなかの4つほどのケースの追跡が紹介されていた。理由(わけ)あって、故郷を捨て、家族や親族と縁を切って生きる人たちが死をむかえても、誰もみとるものがないという現実。シゴトだけで生きてきた男たちの末路・・・。私にとってもけして他人事ではない。
このドキュメントを見て驚くのが、その死の早さである。平均年齢80の時代に、無縁死を遂げる人たちは50代、60代なのだ。つまり団塊世代とその下の世代である。戦後の急成長のなかで、シゴトに自分の本分を求め見いだしてきた人たちだ。そのシゴトから引き離され、犠牲になった家族とも別れたあとの者たちに残された偉大なる空虚。そして孤独な死。
身元の判明しない死者を行旅死亡人という。行き倒れということであろう。都会のアパートで一人暮らしをしていて、死んでから数日経て発見されるケースが多い。炬燵に入ったまま、トイレに倒れたまま、と、病むところもなく突然死が襲ったかのような死に様である。
一瞬で死んだのかしら。くも膜下出血でも起こして瞬時に死んだのなら救いはあるが、もし意識を残して2、3日かけてじりじりと死んだのなら耐えられない。死に行く時間を思うだに恐怖する。
かつて無縁というのは、権力がおよばないアジールを指す。『無縁・公界(くかい)・楽』という網野善彦の有名な著がある。中世の権力が荒々しく振る舞うなかで、そこからの避難港のような役割を果たした空間だ。楽は楽市楽座の楽だったと思う。
現代では真逆の意味に変化しているのではないか。
無縁/苦界/落――くだらない駄洒落だが、そう思える世相が今起きている。
ところで、自分が死んだらどこへ葬られるかということを、ふと考えた。これまでなんとかなるさと漠然と思ってきたが、今回の入院騒ぎのように重い病を体験すると、だんだん現実の問題として迫ってくる。たちまち、今、保管している母の遺骨をふるさとの教会の墓地と先祖伝来の墓とに分散するにしても、その後の自分はどうなるか。今更、故郷に帰ったところで仕方あるまい。といって都会の墓地も嫌だ。散骨にしろと遺言しても、やらされる子供たちにとっては迷惑かもしれない。
高度成長のときに、都会に呼び集められた人たちは、死期をむかえるにあたりいかなる選択をしているのだろうか。
無縁の死は無念の死とばかりは言えまい。あえて無縁の死を選び取る者も少なくないにちがいない。すべてのしがらみを断ち切って、まったく孤独に自らの生を閉じるという生き方だってあるかもしれない。
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