加賀乙彦の言葉に導かれて
偶然手にとった新書『不幸な国の幸福論』(加賀乙彦)は実に示唆に富む本である。
手にとったきっかけは、あの加賀が書いている、幸福論は最近私の関心事、加賀は作家であると同時に精神科医である、58歳という老齢になって洗礼を受けた人物、本文のなかに神谷美恵子の名が現れること、など。これらの要素がからまって、私は本書を購入した。
加賀乙彦といえば、「宣告」、「湿原」、「永遠の都」など純文学の長編作家として硬いものばかり書いてきた人だ。おまけに東京拘置所の医務技官として死刑囚と長く向き合ってきたという実績をもつ。どうせまたドストエフスキーでも持ち出して高邁な人生論を語るのだろうと思ったものの、先に述べた理由で、この本のページを繰ることにした。
加賀さんとは8年ほど前に制作した「魂をめぐる対話」で門脇佳吉神父と対談をしてもらった経緯がある。加賀夫妻は門脇師から洗礼を受けている。妻も加賀と同じ時期に信仰の道を開いて歩き始めたのだ。その奥さんとの関係はどうなっているだろうという野次馬根性がまず動いた。第4章に加賀さんはこう書いていた。
《私事になりますが、2008年の秋に妻が急逝しました。二人で長崎に行こうと荷造りをした日の夜、・・・70歳での旅立ちでした。》
この一文を目にしたときから、加賀さんは本気でこの書を書いていると感じた。
なにより人生の最愛最高のパートナーを失ってなお、人生の希望を語ろうとする加賀さんの姿勢に必死なものを感じたのだ。
この書では、死より老いを重視している。老いからくる退廃のほうがはるかに罪多いと考えられている。史上かつてない長寿を生きることになった“不幸な国”日本。その老いをいかに受け入れ、生きていくかを、81歳の加賀が説くのだ。
そして、ここでも、加賀は神谷美恵子の生きがいということを深くみつめる。「私たちの生きがいは損なわれやすく、うばい去られやすい」(神谷)
意識を失う3日ほど前に言った母の言葉「何のために生きているのやろ。こんな苦しいめにあいながら」。信仰をもつ母ですら迷い苦悩した。動けない身となって、母の得意な繕いものや袋もの作りが出来なくなった、誰も私をあてにしてくれていない、と絶望した。この母の言葉を聴かされたとき、私は慄然とした。
まさに、神谷の言う通り、「生きがいは損なわれやすく、うばい去られやすい」。どうしたら、母に生きがいを取り戻すことができるのか。彼女の信仰はどうなっているのか。私はこのまま母が沈んでいくことを恐れた。
その数時間後か次の日か忘れたが、母は切羽詰ったような口調で、必死に訴えた。
「私は傲慢やった。何も悪いことなどしていないのになんて、あまりに傲慢やった」
罪人として自らを悔い、かつ救いを求める信仰の言葉だった。
この変化は何から来たのだろうか。母の存在を越えたおおいなるものから働きかけがあったのだろうか。
今、加賀の文章に導かれて、母の言動を噛み締めている。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング