朝焼けを見ながら
昨夜、なにげなく点けたテレビで「二本の木」というドキュメンタリーが放映されていた。途中から見始めたのだが、主人公の小沢爽という名前にぴくんと反応して見入った。
私たちの先輩の体験を描いた作品だと、すぐ感じた。先日届いたOB倶楽部の物故者名簿にその名前を見ていたから。
案の定、番組の進みゆきで私の直感が正しかったことを知る。意外なことに彼の癌との闘いがメインでなく、彼の妻が小細胞癌で病んで倒れ、それを介護しているうちに、小沢さん本人も癌であることを知るという展開となっていく。つまり、平成19年の初めに妻が亡くなり、その半年後に夫も他界するという出来事を描いていたのだ。
小沢夫妻は初任地の北見で知り合い結婚したようだ(途中からの視聴なので推測だが)。40年間連れ添って、かつ互いに尊敬しあっているという羨むべき関係。かつ、妻のchioさんは洗礼を受けており洗礼名はルチア(光)。小沢さんは深い知性をもつ教養人。この二人の最期の日々が二人の日記をもとに”再現”される。
テレビに見入っていると、家人たちからは、「よくこんな重いテーマの番組を見るね」と驚かれながら、身じろぎもせず最後まで見た。
内容については、もっと考えて感想を書くことにしたい。今の私は、このような”英雄的な死”を臨むことができるのだろうかという自問に対して、どう答えたらいいのだろうかと考えることで精一杯だ。
昨年後半に起きた母の死への接近に際しても、母の魂についてしっかり見守っただろうかと問えば否としか答えが出て来ない。病の進捗ばかりに目を奪われ、その対応、対策に汲々としていたとしか言えない。その臨終にも、「明るいほうへ歩んでいきなさい」という英雄的な言葉を母にかけることもなく、ただ死にゆく母の状態を見つめるしかなかった。
もしも私に、小沢さんのような情況が与えられたとして、かくも自分を温容に受け止めることができるだろうか。
この問いに対しても答えは苦い思いを抱えながら今は留保する。
この数年、時間をかけてポストモダンの言説、デリダ、ラカン、バルトなどから遡ってハイデガー、ヘーゲルやカントなどの哲学の解説書を読むことがあった。一方、神谷美恵子や中野孝次、大江健三郎など人生の秘密を知りたいと読む進める一群の本たちがあった。
哲学と宗教の間とは差異とは何か、なかなか分からなかったが、今回の「二本の木」を見ながら、はっと感じるものがある。
人生の仕組みの原理的なことをトータルに分からなくとも、現下の魂の渇きに安らぎと救いを与える言葉があるということ。
なんだか当たり前のことだが、このことを掴んだような気が、「二本の木」を見ながらした。
6時15分に目が覚めて、しばらくベッドのなかで以上のようなことを考えていた。それから起き出してパソコンに向かって書いている。朝のしじまのなかでぼんやりとした頭でぼんやりと考えたことを書いている。ふと気がつくと窓の外に朝焼けが始まっていた。ベランダの窓越しに銀杏の枯れ木がすっくと立っている。そこに雀たちが寄ってくる。さえずりが賑やかになる。
ベッドのそばに鏡があってのぞきこむと、シルエットの私が写っている。顔は見えない。右手を揚げたり下げたりして、おいオレはまだ生きているぞと、合図を送ってみたりもする。
「二本の木」の最後にタイトルロールが出て、制作統括に私と机を並べている同僚の名前が出ていた。なんだ、私の部で制作していたのだ。知らなかった。そういえば、この同僚から賀状が届いていた。今年は賀状を出せない理由があったと詫びるハガキを本日書く予定にしているが、彼にはこの感想を少し書いておこう。
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