韓国の友へ
年末のぎりぎりに母が死んだので、賀状がたくさん届いている。そのなかに、金沢の年長の知人からのものがあり、欄外に「今年は安江良介の13周年になります」と書かれてあった。賀状の主は安江の高校時代の学友で、先年追悼会で知り合った人物だ。
――岩波書店の社長で、かつて総合雑誌「世界」の名編集長といわれた安江が63歳で死んで13年になる。
安江のもっとも大きな功績はアジアへの正当な関心を作り上げたこと、とりわけ朝鮮半島との交流を推し進めたことである。金大中が拉致誘拐されたとき、現場となったパレスサイドホテルの一室で会う予定だったのは安江だった。軍事政権を批判する金を支援しようと、安江はその日金と話し合う予定にしていた。
この無法な事件を契機に、安江は編集長を勤める「世界」で“韓国からの通信”という連載を開始し、韓国の民主化のために論陣を張ることになる。通信の筆者は匿名のTK生であった。このコラムは軍事政権の矛盾を鋭く衝き、日韓同盟を基盤とする保守派の人々を苛立たせるものであった。朴大統領の秘密警察ともいうべきKCIAはたえず安江を監視し、TK生という人物を特定しようと躍起になる。このときの苦労や緊張を、生前の安江から私は聞いたことがある。
3年前、TK生は私だと名乗りを上げた人物がいる。東京女子大で教鞭をとっていた池明観先生だ。池先生は安江が死去したときに弔辞を詠んだ人物でもあり、カミングアウトする前から私はそうではないかと予想していたから、意外ではなかった。大江健三郎さんを通して私は先生を紹介された。1995年、大江さんが中心となって開かれたプリンストン大学でのシンポジウム「オウム事件を越えて」にも参加しており、その取材を通して池先生のひととなりを私は知る。
この池先生から安江の韓国への思いや池先生との篤い友情のさまざまを知らされて、私は感動を禁じえなかった。安江は中学生の頃から朝鮮半島への関心を持ち、関係の正常化をながく考えていた。私の大学の先輩である。
私の住む北陸の敦賀でも長く在日コリアンへの差別があった。林春玉さんというクラスメートがいた。中学校では体操部で活躍していたが、その名前が奇妙だといって、私ら悪童は囃し立てたことがある。俯いて、唇を噛む春玉さんの姿が目に焼きついている。
美空ひばりが急死したとき、私は「ひばりの時代」という特番を制作した。ひばりの歌に人生を重ねた民衆を追う物語で、私は大阪に住む在日の人を取材したときのことだ。その女性は戦後長らく敦賀に住んでいて、ひばりの映画を見ることだけが楽しみで、そのために国際劇場に通ったと証言した。国際劇場とは敦賀に3軒しかない映画館のひとつだ。その名前が、突然飛び出てきたとき、私はうろたえた。林春玉さんの勝気な黒い瞳を思い出した。
この思い出があったから、2004年に韓国ドラマ「冬のソナタ」と出会ったとき、私はこのドラマを軸に日韓関係を変えてみたいと野望を抱いた。
今年は韓国併合から100年という、大きな節目である。
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