大晦日の大磯の海

2009年とはどんな年であったか
2009年、61歳になった。波乱などない終りなき日常の年だと予想していた。
1月3日、新年早々に親友の小高カメラマンが50半ばで死んだ。89年の「世界はヒロシマを覚えているか」「ノーベル賞の旅」など、大江健三郎さんの番組を二人で作って来た戦友だ。
1月下旬に、前立腺に問題があるということで、2月に東海大代々木病院にかかる。
3月、イタリアへ娘と旅行する。フィレンツェとベネツイア。
3月17日、帝国ホテルで少年サンデー、少年マガジンの創刊50年のパーティが開かれる。このとき、思いも寄らない裏切りを体験する。この怒りは後から考えると、かなり大きなものであった。
3月29日、赤塚不二夫の「全身漫画家」を制作、放送。これは10月に開かれた2009年度のATP賞の優秀賞に選ばれた。
5月5日こどもの日、特集「ザ・ライバル」が放送。ここ数年手がけてきたサブカルチャーの集大成の作品をと意気込む。視聴率はまずまずであったが、思ったほど世間の評判にはならなかった。
6月、太宰生誕100年ということで、太田治子さんと取材を始める。
今年も、4月から7月まで、毎月最終週には敦賀へ帰って、母親と過ごす。
7月16日から、川崎市民ミュージアムで「少年週刊誌の遺伝子」展がオープン。
8月、湯涌温泉で大学時代の同窓会が開かれ出席する。40年ぶりに会う人もいた。
8月中旬、敦賀に住む母に異変が起きる。
8月26日、母の肺の診断を、横浜昭和大学病院で受ける。楽観を許さない状況だと知る。
9月、母の初めての歌集「五条坂」を編集して、自費出版であれ、カタチになったことを母は喜んでくれた。
9月13日、ETV特集「“斜陽”への旅」が放送される。太宰ブームとあいまって、各界から高い評価を得た。
9月、10月、母は入院したり、三弟の家に戻ったりする日が続くようになる。
10月、教育テレビの特集「こどもたちへ~宮崎駿・養老孟司対談」が放送。
この番組を改編して、2010年の新春特番にしていく。
12月に入って、母の容態が急速に悪化。
12月16日、私の胃に問題がありそうだということで、胃カメラを飲む。
12月22日未明、母帰天。
26日、敦賀にて本葬
2009年は死、苦難ということを痛切に受け取った年であった。
母の死――ふるさとが急速に遠ざかっていく。
12月31日、美しい夕焼けとなった。夜になり大きな満月があがった。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング