遠い霧笛
東京湾からの遠い霧笛がきこえる。冬になればよく聞こえる。鳴る数は明け方に多い。
本未明も熟睡していたはずだが、聞こえたような気がした。
明け方3時過ぎ、弟からの電話が入った。母の容態が変わったので、病院に自分たちは向かうという。ことは急を要していると感じた。
私らも慌てて、コートを着込んで、外へ出た。駅前に駐車していたタクシーを捕まえて、都内から高速で青葉台インターチェンジへと急ぐ。深夜なので渋滞もなく4時過ぎには青葉台へ。そこから藤が丘の病院までわずかな時間で着いた。
8階の病室へあたふたと駆けつけると、弟たち一家3人と看護師が個室のなかにいた。
母の命は終わろうとしていた。コートも脱がずにベッドに寄り、母の手の甲に触れた。こころなしかまだ温かみがあると感じた。口には今まで見なかった酸素吸入器が装填されていた。
しばらくして、主治医のY先生が入室。家族の私らに挨拶をして、「脈を拝見してよろしいでしょうか」と丁寧に申し出られた。お願いしますと、場所を譲ると、医師は母の手をとり、次に瞳孔を覗き込んだ。向き直り、腕時計を見て、「4時55分、死亡されました」と宣告。
終わった。
8月下旬から、およそ半年にわたって続いた母の戦いは終わった。一旦、家族は部屋の外に出るよう指示され、私らは待合コーナーで待機する。
竹芝の遠い霧笛や母昇天
ここまで書いて、少しの悔いを以下に刻んだ。
私情そのもので
母の死をあからさまにアップするのは野暮だと分かっていたが、どうにも自分のなかでけじめがつかないと思い、ブログに書いてしまった。書かずにいられない気分だった。
どうにもおかしいのだ。母が昇天した瞬間、病室にいた身内はみな涙ぐんだ。それは当然だ。なのに、私には涙は少しうるんだものの、ほとんどない。その後、一日中、シゴトの始末をしていてもきわめて平静なのだ。どうにも、心のバランスがとれていない。悲しいという状況を体験した脳は、悲しいという感情を反応するというメカニズムが自動化していない。脳と感情がずれているようだ。
そういうデスペレートな気分に区切りをつけたいと願って、母の死をあからさまに書き込んだのだ。わざわざ、私のためにいたわりの言葉を下さる方には感謝をすると同時に、いささか恥ずかしくてならない。が、その記事を取り下げるという気にもならない。
・・・・・
ここから10年の月日が流れて。2019年12月24日クリスマスイブに、これを記している。夜10時。母の死から10年も経ったのだ。伯父貴に久しぶりに電話をもらうと、おまえのブログを読んで義姉さんの死を思い少し感傷にひたったとつぶやいた。そのことが気になってこのブログの記事を見つけ、そして何か誰かに語りたい思いでこの文章を刻んでいる。
ーー祝母は啼くだろう、傘もささずに雪の中に立っているおれを見て。母が編んでくれた黒のブイネックのスェーターを着て、初めて買ってもらった子供用の傘を手に持って。
今夕見た白金の台地に枝を伸ばして立っているケヤキの巨木。夕映えは美しかったが、星はなかった。東京のマンションの一部屋であなたを思いながら、祝葬歌を口ずさみ。
やはり最後に母の短歌を残そう。昭和31年のクリスマスイブ。大雪が吹雪となって教会へ急ぐ親子を遮った。だが悲しくはなかった。凛々と白い悪魔に向かっていったことは忘れていない。
幼き吾子三人を連れて雪道をクリスマス礼拝へと行きし遠い日 美代子
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