暗い憂鬱な顔をしながら
幸福論の真ん中に苦難ということがどっかり在る。
人は他からやってくるものによって、自己の存在を確認するものだという。
他からくるものとは、言葉を変えれば体験するということでもある。苦難は体験である。
つまり、人間は苦難によって人生というものを知るという。なぜ、そんな厄介な皮肉な成り立ちに人生があるのか。それは理不尽ではないかと問いたいが、それが大いなるものの恩寵でもあると三谷隆正は考えている。
その例が、旧約聖書のヨナの物語であり、新約聖書では最大のものは十字架上のイエスが発した言葉、「エリ エリ レマ サバクタニ」
神よ、なぜ吾を見捨てしか
何も悪いことをしていないのに、なぜこんな苦しいめに遭わないといけないのやろ。この言葉が耳朶から消えない。
再度、キリスト者である三谷の言葉を引く。
「苦難とその手痛き阻止を通してのみ、真の実在者の実力に触れ、人生において真に力となり頼みとなるものが何であるかを知らされるのである。」
信仰をもたないという大江さんが、先日の講演で聖書の言葉を引用した。「暗い憂鬱な顔をしながら」。そういう気分で相談するときが必ずある。それは「燃え上がる」言葉に結びつくものでもあると、聴衆を励ますものであった。文脈は、日本の古代の知識人のことであったが、私は今の暗い顔の私の出来事に引き付けて、意義深く受け取った。
人生の途上で苦難に遭遇したとき、結局手がかりになる言葉は、ダンテでありセネカであり聖書であるという現実。補助線として、今の私には神谷美恵子、三谷隆正、そして大江健三郎の言葉となる。
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