眩しい光のなかで
ベランダから向かいの空き地に聳える大銀杏を眺める。見事な黄葉だ。黄色の塊が朝の光を浴びて輝いている。逆光が葉を透かして躍る。姿は見えないが、黄色の葉群らのなかから冬鳥の声がしきりにしている。黒い影が動くたびに、銀杏の葉がはらはらと落ちる。いや、そうではない。鳥の影などなくても葉は次々と舞い落ちている。師走になったのだ。
教科書で覚えた銀杏の短歌がのど元まで出掛かっているのだが思い出せない。内容は覚えているのだが、歌そのものが出て来ない。夕日に照らされた銀杏の葉がまるで小鳥のようにしきりと落ちていく、という内容だ。朝日と夕日の違いはあれ、光を浴びた銀杏という美しさを詠んでいた。ちらりほらりと落ちていく様は黄金の小鳥だ。
「寝床のなかで蜜柑を食べるのはやめて下さい」と家人に言われた。
ここ半月、朝、蜜柑を口にほお張りながら、本を読むことが続いた。ローティの解釈学や三谷隆正の『幸福論』、渡辺二郎の『自己を見つめる』といった書は、頭をしっかりさせないとページがなかなか進まない。蜜柑を食べて唾液を出して、頭のなかが動き出すようにして読む。こうしないと、たった1行ですら読みこなせないと感じて、ついつい蜜柑を寝床のなかに持ち込むことが多くなったのだ。
布団をたたむと、蜜柑の皮の切れ端がぽろぽろ零れてくるだけでなく、時にはシーツに黄色い汁のシミまでついているから止めて、と家人は要求する。分かっているが、今朝も小さな蜜柑を枕の上に置いて、高井有一の『半日の放浪』を読んだ。自選短編集だからすぐ読めた。64歳の退職した男の話である。
「私」は自宅の立ち退きをする前日に、一人で銀座にふらりと出かけて、出会った事柄に内心ぶつぶつ言いながら、その夕刻に灯りがともった家に帰りつくまでの話だ。定年前後のサラリーマンの貧しい交友を半ば僻みながら半ば苛立ちながら見つめている筆致に共感した。
こんな言葉があった。《三人の仲間のうち、一人が落魄していたら必ず割勘にしなくてはいけない。》
《昨日まで私も、あのように同僚と連れ立って食事に出、あのような口ぶりで話をした。どんな取り止めもない話も、どこかで仕事と関わってきたような気がする。》
私の会社で、隣に座る男は弁当を持参している。理由を聞いたら、「あるとき、異動で周りに知っている者が誰もいなくなったことがあってさ、飯をいっしょに食べに行くのがいなくなってね。惨めに思えたから、自分を守ろうと思ってこうしているのだ」と答えた。普段、強気の男だったから意外に思えたと同時に、その寂しさがなんとなく分かった。
そんなことをぼんやり思いながら、蜜柑の皮を剥いて頬張った。小ぶりのその蜜柑は甘かったので得をした気になった。銀杏の黄色と蜜柑の黄色はまた少し違う。
追
思い出そうとしたのは晶子の作品だった。
「金色の ちひさき鳥のかたちして 銀杏ちるなり夕日の岡に 与謝野晶子」
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