偶感、だらしなく
「となりの芝生」というドラマがリメイクされている。その中にこんなシーンが出てくる。亭主が同僚を家に連れて来てどんちゃん騒ぎをする。そのまま酔いつぶれて、一同宿泊。翌朝、亭主とその仲間はそろって朝飯を食べて、出社していく。
この光景が、今ではありえないと、評論家が書いている。こんな風景は昭和だというのだ。
私には当たり前の風景だったのだが、たしかに平成に入ってからは減った。まず、引き連れて歩く若い人がいなくなったし、一緒に飲みに行こうという仲間や部下も消えた。息子や娘に聞くと、会社の上役なんかと飲みに行きたくないという。飲むなら、気の置けない仲間うちで飲む。オヤジといっしょになればきっと自慢か説教であろう、そんな面倒くさいことは嫌だ、というのが若者の言い分らしい。
養老孟司さんは四六時中シゴトばかりしていて、定年退職した後ボケーっとした人生を送ることになった人を何人も見たという。そういうシゴトの仕方、させ方はある意味で犯罪的とまで思えると強い調子で語ったことが忘れられない。その対象にほぼ私はあたるだろう。
「定年再出発」、いまだ開幕ベルは鳴らず、ぐずぐずと愚痴三昧が続くこの身なれば。
ふっと、私はどこへ行くのだろうと思った。どこから来たのかも知らないが、もったいなくも忝くも何かに導かれてこの世に来たのらしい。たった一人しかいない私の遺伝子の集合体である私。
遺伝子の全ゲノムが解読されて、来年ぐらいから個人のゲノム情報を得ることも可能になるらしい。そうなればゲノムビジネスも盛んになろう。1000ドルで調べてくれる時代がそこまで来ている。ちょっと私も調べてみたい気がする。私のゲノムたちも、私をあの世からこの世へそして川を隔てた橋の向こうへと運搬していく。
・・・何かこの文章の論理はヘンだな。座りが悪い議論の気がするな。なぜなのか。
こぼれ松葉に火を放ち童のごとき我なるか。
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