嘘もつくし
ある人から、「あまりブログに書かないほうがいいですよ」と忠告された。同業の人が読んでいて、企画のネタを拾われたり、えらそうなことを書いていると妬まれたりしますよ、ということらしい。私だって否定的に見られるのは嫌だ。達観するほど人間ができていない。
でも、こうして書きつづけるのはなぜか。一度目の定年を終えて、退役間近の予備役に近い現役であるというオキラクな立場にあるからか。それにも増してネットという社会的無意識に半匿名でかつ本当か嘘か分らないふりをして身を沈めてみたいという欲求がやまないからか。
ウソツキクラブの大牟田雄三は、本業を離れると饒舌だった。すべてが嘘とはいわないが、オオムダなことを言うぞうだった。親父ギャグに近い駄洒落も連発した。でも本職の河合隼雄は寡黙というか無駄口もきかなければ、余計なことも話さなかった。話すより聴くほうであった。本気で聴くというのは疲れただろう。転移されるようなこともあっただろう。アメリカで起きた精神科医による無差別殺人のニュースを見て、その職業がらの苦難を思った――これは余談。
『思想家 河合隼雄』を読みながら考えている。
テレビの番組を作るというのは、自分を表現するというより他者の欲望を探し回ることに近い。今はどんな時代だろう、大衆は今何を欲しているのか、それは今とどんな関係があるのか、他者が理解しやすい表現になりえているのか、企画・取材・編集という制作のすべての過程でいつも自問自答している。
時には他者の欲望でなく自分の考えていることや欲望を書きたい。なら紙の日記でいいじゃないか。そうはならない。赤裸々に書いておくという欲望ではないからだ。デカルト的明晰さを求めているのではない。自分をやつして自分を装って、時には自己すらも騙して、パソコンの文字を並べることにエネルギーを注入したい。私の脳は今こんなことをデスクトップに呼び出している、私の心はこんな天候になっている、私の身体はこんな状態にあるのだということを、“事後的”に知るためにも…。
3年以上にわたり2400件も記事を書いてきた。だが、これは私のはらわたのごくごく一部にすぎない。でも外形化された文言は、記憶を呼び覚ましたり否定したりして、それ自体が動きはじめる。3年間の文章を通読すれば、明らかに、私の気分(エートスといっておこうか)が見えてくる。公開している記事ばかりか非公開にしてお蔵にしまいこんだ記事もある。それも含めてブログ宇宙がここにある。
この2ヶ月間にかぎって振り返れば、頽廃的にしてネガティブな気分がそこにあることがよく見えてくる。
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