古本屋の薄暗い電灯の下で
今から30年前、どこの私鉄沿線の駅前にでも一軒ぐらい古本屋があったものだ。
当時、ぼくは結婚したばかりで東横線の武蔵小杉に住んでいた。正確には武蔵中原だが、渋谷から帰って来ると降りるのは武蔵小杉だった。国鉄と共通の大きな改札とは別に東横線だけの南口改札があった。そこを出たところに私の自転車を置いていた。
南口には線路沿いにキャバレーやうどんやが並ぶ小さな商店街があった。改札に近いところにぱっとしない古本屋があった。大半は雑誌や文庫本ばかりの店内で、単行本の棚はせいぜい4つぐらいしかなかった。単行本といっても梅原猛や森村誠一のような本ばかりで、これといってめぼしいものはなかったが、会社の帰りはまち合わせのためちょくちょく寄った。
コートを着ていたから冬だったと思う。人通りも少なくなった8時過ぎにその店(名前はとっくの昔に忘れた)を訪れた。ガラス戸を開けると一人だけ立ち読みの中年の客がいた。まっすぐ単行本のコーナーまで歩んだ。『悪魔の飽食』や『隠された十字架』など見慣れたタイトルの背表紙が薄暗い電灯の明かりを浴びて並んでいた。
棚の上のほうに『オリーブの墓標』と書かれた本があった。著者は石垣綾子とある。本の厚さも大きさも手ごろで、背伸びして私は書棚からその本を抜いた。評論家として石垣綾子の名前だけは知っていたが詳しいことは知らない。テレビで女性の政治参加などを力強く主張する、少しうるさそうな小母さんとぐらいしか認識がない。
ぱらぱらとページを繰ると、石垣さんは若い頃ニューヨークでくらしていたと記されてある。戦前の大恐慌時代を実際に体験をしたとあとがきにある。スペイン戦争、義勇兵、日系人と少しおもしろそうな話題が目次に並んでいた。
ジャック白井という名前が目次に出ていた。どんな人物かとそのページを開く。函館生まれの日本人で密航してアメリカにたどり着いた人物らしい。石垣栄太郎、綾子夫妻と仲がよかったようだ。港近くのレストランでコックをやっていて、ときどき石垣夫婦のもとへ遊びにやって来た。彼は非合法のアメリカ共産党に入党し党員になった。大恐慌後、劣悪な労働環境に対して改善を求める運動に白井は参加していた。
1936年にスペインで内戦が起こると、アメリカ共産党も共和国政府の側を支持するようになる。やがて、共和国の側の劣勢が伝えられると、アメリカ共産党は積極的に応援することなり義勇兵を送ることになる。そのなかに唯一人の日系義勇兵としてジャック白井の名前があった。この人物の知られざる生涯を描いたのが、石垣綾子著『オリーブの墓標』だ。
私はすぐに買って店を出た。一刻でも早くその本を読みたかったのだ。
今となってみれば、この本との出会いがぼくのディレクター人生を大きく決定していくことになる。番組制作人生、最初のジャストミートだった。
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