人生にジャストミート
「課外授業」の主題歌の冒頭に、「縁は異なもの・・・」と歌いだしている。
人生には異な縁というか不思議な出会いというか大切な転轍点というものがある。何度も書いたが、大江健三郎さんと広島の出会いもその一例だ。長男光誕生、広島へ逃避、広島日赤病院で重藤文雄副院長と出会い、光と共生を決意。この重藤文夫との出会いが大江に人生的文学的主題を与えることとなる。大江さん自身、ノーベル賞受賞後にこの出来事を「ジャストミート」と題してエッセーに書いている。
知らないままに出会っていたという縁もある。
昭和52年、山口の無名校にいた津田投手は球はめっぽう速いが気が弱く、ピンチになるとすぐ崩れるので仲間から「ノミの心臓」と呼ばれていた。その夏休み、東京から6大学のエース早稲田の道方がコーチでやって来た。道方は津田の才能をすぐ見抜いたが、ハートの弱さにも気づいた。そこで一枚のメモを津田に渡した。
「弱気は最大の敵」。ピンチになったときはいつもこの言葉を思い出せと、励ました。朴訥な津田少年はこの言葉を秘めて、その夏の7月、地区大会で完全試合を成し遂げる。ここから津田はプロのマウンドまで疾走していくのだ。
「弱気は最大の敵」という言葉が津田の人生を変えたということは、津田自身も気がつかなかったし、教えた道方も覚えていない。道方が気がつくのは、それから17年経った平成6年のことだ。テレビで「もう一度、投げたかった~炎のストッパー津田恒美の直球人生」を見ていて、道方はあのときの少年だと悟ったのだ。
出会うこともタイミングが大事だ。
映画雑誌の編集だけでは飽きたらなくなった向田邦子は、シナリオライター集団「Z」に参加する。29歳のときだ。そこでプロのシナリオ作家たちに揉まれて技を磨くのだが、本格的な始動は「Z」の世話人の今戸に森繁久弥を紹介されてからだ。一本書いてみた脚本が森繁の目に留まり、彼のラジオレギュラー番組「重役読本」を書くことになる。さらにテレビの「七人の孫」のシナリオを担当するようになり、彼女は大きな世界へと漕ぎ出していくのだ。
出会いは片方だけに影響するわけではない。
内田勝が大伴昌司と出会ったのは、内田が少年マガジン3代目編集長になったばかりのことだった。不祥事が続いて2代目編集長が降板したあとを受けての就任で戸惑っていた。が一方ではライバル少年サンデーに対して一矢報いたいという情熱も湧いていた。そこへ現れた大伴はちょうど円谷プロのお蔵に入った特撮映画の企画をもっていた。大伴から内田は一度ぜひ見て欲しいと依頼されて見たのが「ウルトラQ」である。これはいけると直感した内田は少年マガジンで怪獣の特集を巻頭に掲げることにする。ここから少年マガジンの快進撃が始る。同時に、大伴昌司もそのグラフィックな手腕が認められ、巻頭図解のデザイナーとしての頭角をぐんぐん表していくことになるのだ。
ディレクター、プロデューサーの仕事に携わって40年。レギュラー番組を除いて、いわゆる特番を500本余り作ってきた。この数は、同世代の同業者のなかでもけっして少なくない数だと思う。その番組群のなかで、こうして作って来たなかでも、私自身の人生にジャストミートした番組は5本はあったのじゃないだろうか。
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