無知の涙
昨夜のETV特集は永山則夫の刑死を取り上げていた。ちょうど私のチームが太宰治を編集している頃隣の部屋で永山組が作業していたのでこの番組の存在は知っていたが、内容がどう構成されるのかまでは知らない。この死刑囚の何をどういう風に描こうとするのか、気になっていた。
私たちの世代にとって永山則夫という名前は忘れられない。極貧の境遇から連続射殺魔に転落していく人生は、当時、大学闘争で激化するスチューデントパワーに対して冷水を浴びせるような事件として、私たちの目の前に現れたからだ。彼は殺人犯となっていく契機を資本主義の矛盾から捉えていた。その永山の激しいアジテーションは、大学を卒業後闘争など関係ないかのように適当に就職していく学生にとって厳しいものであった。獄中で彼が書いた『無知の涙』という書籍は私の胸にも突き刺さった。
京都へ滞在するとき、時々八坂神社を訪れることがある。深夜、人けの絶えた境内を歩き、神木の薄暗い陰に入ると、いつも永山のことを思い出す。ここに彼は潜んで神社の警備員を射殺したのだと。遠く車の騒音がもれてくるが、目の前には神社の闇しかない。闇には貧しい若者の怨嗟が充満している。永山の無知の悲しみと貧困への怒りが渦巻く怨嗟が。
番組には永山と獄中結婚したミミという女性が登場する。
永山の存在が宝となったと告白するこの人にとって、一審で死刑判決を受けた後の高等裁判所での戦いが大きな試練となる。ミミは処刑台から自分の下に永山を奪還することだけを願う。だからこそ、永山に代わって被害者の遺族を巡礼して謝罪を繰り返すのだ。だが、謝罪しながら、いつか自分もこの遺族と同じ立場になるかもしれないという恐れを抱くことになる。死刑によって“殺される”永山の遺族に自分はなるかもしれないという恐れ。「いらない命なんてない」このミミの魂からの叫びが胸を撃つ。
幸いにも高裁では減刑となる。が、それも束の間暗転し最高裁での差し戻しを経て死刑確定となる。永山はミミと離婚する。番組は、その経緯について深く語らないが、ミミの心中は察するに余りある。
そのミミがカメラに向かって語る。「いらない命なんてない」という言葉。
この番組を視聴しながら、私はストア派の功利的禁欲主義のことを想起していた。人の行為を最小にして人の幸福という快楽を追求していけば、自殺するしかないということ。我々は生きていく、そのことが罪を犯す構造にある以上、その存在を絶つことが最良の幸福と考えるストア派の禁欲的快楽主義。セネカの自殺はそれを実行したことになるのだろう。ミミが語る「いらない命なんてない」という言葉とは反対の思想。それもあるかもしれないと思ってしまっている私。
このドキュメンタリーの「死刑」というメッセージの重さを理解はするものの、はたして死は絶対不善として遠ざけることがいいことであるのかどうか、今の私には分からない。
「われ正路を失ひ、人生の 覇旅半にありてとある暗き林のなかにありけり。」
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