ちばさんの人柄
昨日の12時29分、のぞみに乗ってちばてつやさんがやってきた。誰もお供はいない。一人でバッグを肩にかけてぶらっと来たといった雰囲気。新幹線のホームまで出迎えた私はさっそく遠路ありがとうとございますと挨拶をすると、にこっと笑顔のちばさん。
駅から大学までタクシーで40分とみていたが、道が空いていて、1時には到着した。
教室にはおよそ70人ほどの受講生がちばさんを待っていた。
教壇をとっぱらった場所に椅子を二つ置き、ちばさんと私が並んで、公開授業となった。一応、私が司会と聞き手を兼ねてちばさんに質問をぶつけ、それにちばさんが応えるという方式で、ちばさんのデビュー時代からの「漫画論」をうかがった。
1956年に千葉さんは貸本漫画デビューするのだが、そのときまで、ちばさんは漫画の印刷するための原稿がどんなものか知らなかった。神田の日昇館(この表記は違うかもしれない)という小さな出版社に初めて原稿を持ち込んだ。用紙の裏表に画を鉛筆で描いた原稿だった。そこで、日昇館の編集者から、漫画の原稿というものはペンと墨汁を使って描くもので、修正はポスターカラーを使用するもの、ペン先はGペンがいいことなどを逐一教わったのだ。
それでも才能があったのだろう。その編集者は何か20枚ほど描いてごらんと指示した。半月ほどかけて描いて、その原稿をもっていったところ、さらに20枚描いてと言われた。家族6人が一間で暮らすちば一家では、画を描くスペースなどなく、いつも押入れにこもって描いた。こうして、5回ほど原稿を届けたら、次は14枚にしてお話を終りにしてごらんと編集者は言った。急に終われといわれて、不器用なちばさんは四苦八苦して原稿を描いた。この間、ちばさんはずっと漫画の修業を行っていると考えていた。当時、日大一高の2年生である。
14枚を編集者に渡したところ、その人は引き出しからお札をごそごそと取り出し、コインを数えて12601円にしてちば少年に「はい」と渡した。ちばさんは一瞬そのお金が何か分からなかった。まさか、これが本になるとは思わなかったし、稿料がもらえるとも思っていなかったのだ。その年1956年に1円玉が発行されたばかりだから、端数の1円のことをよく覚えている。それからちばさんはどうやって家に帰ったか覚えていない。興奮していっしょに行った漫画仲間から、むき出しで握ったお金をポケットにしまえよと注意されるまで、どんなふうに歩いたか記憶がない。
こんな、ちば少年のエピソードからあしたのジョーで梶原一騎さんとの一騎打ちまでのエピソードをうかがっていたら、あっと言う間に1時間半経った。まだ、聞くべき話がたくさんあったが、残念ながら時間切れとなった。
この後、教室から演習室に移動。そこで、戦争の記憶研究会のメンバーによる、ちばさんの戦争体験聞き取りが行われた。ちばさんは2歳で満州に渡り、6歳で現地で敗戦をむかえ、1年かけて内地に帰還するという過酷な体験をしている。その話を紐解いていただきながら、ちばさんの代表作「紫電改のタカ」の創造のエピソードをあれこれ聞くことになった。
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