エピファニー
1998年に出版された『魂よ、目覚めよ』という書を週末手にしている。表紙を開くと、「道 門脇佳吉恵存」と著者のサインが入っている。この本の前書きに私の名前が登場する。
「未来潮流・哲学者門脇佳吉の魂をめぐる対話」(1997年4月放送)に出演した門脇師は放送後、内容に「不満」だと私にもらした。対話が取材の20分の一にカットされ、門脇師の意図した思想内容が充分表現されていなかったというのだ。
私は積み残したことがあるなら、それを本に書いたらどうかと勧めた。その結果、この書を著すことになったと、まえがきに門脇師は記している。私としては、番組制作者として複雑な気持ちだったので、この書を書棚に置いたまま向かいあうこともなく10年が過ぎていた。
門脇師は上智大学の名誉教授でカトリックの司祭。さらに禅の師家でもある。この書の第一章で、「死と再生」のドラマについて大江健三郎の経験を例に出している。長男光と共生するに至る大江さんの苦難の道のりである。共に生きていこうと決意するときに受けた「一撃」こそ、「顕現(エピファニー)」であったことをおよそ20年かけて大江さんは知ったと、門脇師は書いて、大江の一文を引用している。
《そうだった。自分に障害を持って生まれてきた息子にこそ、顕現としての人間存在の破壊されえぬこと(インディストラクティビリティー)を示されたのだった。》
この大江さんの体験は実際に私自身もインタビューもしてよく知っていた。だが、本日、そのエピソードのある部分に目が留まり打撃を受けた。「この障害児と共生していけるだろうか、もし、この児と共生して行かねばならないとしたら、小説家でありつづけることは不可能かもしれない、この児を闇に葬って小説を書くことができるなら・・・・・、」
この児を闇に葬って、という文字に釘付けになった。まさに死と再生の「死」である。そういう体験を経て再生へと導かれるというエリアーデの言葉は、頭では理解するものの、たやすいものではない。「一粒の麦」にしてもそうだ。《一粒の麦が落ちて死ねば、多くの実を結ぶ》といわれても、その最初に来る「死」をどうやって受容できよう。受け入れることもできず暗い闇のなかをさ迷うようなもの。
門脇師は、聖書の神は隠れているという。――沈黙の、隠れた神。
この書で門脇と対話する主要な人物が、作家加賀乙彦。彼は、門脇師から洗礼を受けていた。その加賀が「祈り」ということに言及する。
《祈ることがどれほど現代人にとって大事なことか。隠れたところで祈れとイエスが言っているとおりに、誰もいないところでこっそりと、しばしば真っ暗闇のところで祈ります。》
この書の導くところを考えて以上のような文章を書いたものの、読み返してみると、判然としないところが多々ある。私ですらどうしていいのか分からないのだから、ましてやこの文を外から読む人にはもっと理解不能のはずだ。それは分かっている。分かっているが、記しておかずにいられない。この文章を閃いたとき、なぜタイトルを「死と再生」、「祈り」とせず、「エピファニー」としたのかも分からないまま・・・。
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